黒柳徹子 ユニセフ親善大使になったきっかけは戦時中の体験にあった
「戦争がなければ、私は女優にならなかった――」
戦後70年を迎え、戦時中を知る方々の貴重な証言が各所で取り上げられている。戦争を体験した先人たちのなかには、それぞれの戦争体験を糧に、社会への奉仕活動や平和を願う運動に身をささげる方々もいる。女優の黒柳徹子さんもその一人だ。芸能活動のかたわら、ユニセフの親善大使として途上国や紛争の続く国にでかけ、困難な状況におかれた子どもと母親を支援する活動に励んでいる。
その黒柳さんがユニセフの親善大使になったきっかけは、戦時中に身についた自身の感受性のおかげだったと近著『トットひとり』(新潮社刊)のなかで明かしている。
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兵隊を「万歳! 万歳!」と見送った
黒柳さんは小学生のころ、自由ヶ丘の駅へ「焼いたスルメの足」一本をくれるというのに惹かれ、出征する兵隊を見送ったという。
《出征する兵隊さんたちに日の丸を振り、「万歳! 万歳!」と大人たちと声を揃えて見送ったのは、お腹を空かせた子どもが何の考えもなくやった事だけど、ずっと、私の心の傷になっている。いったいあの兵隊さんたちの何人が無事に帰って来られただろう? 学校では、戦地に送る慰問袋という物の中に入れる、知らない兵隊さんへの手紙を書かされた。「兵隊さん、お元気ですか? 私も元気です」。》
泣いてはいけない
《ある日曜日、友達の男の子と雪の中を歩いて教会に行く時、お腹は空いているし、寒いしで泣きながら歩いていたら、おまわりさんに「泣くな! 戦地で戦ってる兵隊さんのことを考えてみろ!」と叱られた。(戦争って、泣いてもいけないんだ)と思って、それからは戦争の間じゅう、どんなことが起こっても、私は泣かなかった。》
戦争が与えてくれた感受性
その後東京は空襲を受けるようになり、父親が出征してしまった黒柳さんはどこかへ疎開しなければならなくなった。疎開先の当てのなかった黒柳一家だが、汽車の中で偶然知り合った人に、疎開を受けいれてもらえたという。その時の経験や、青森の疎開先で出会った人々の優しさにふれ、家族や知人を大事にすることや、小さな幸せを心から喜べるようになったと述べている。
《戦争は嫌だけど、ある感受性を私に与えてくれたと思う。(中略)戦争がなければ、私は女優にならなかっただろうし、もちろんユニセフの親善大使にもならなかっただろうし、人生でのさまざまな事だって分らないままだっただろう。戦争は二度といやだけど、学んだことは、多かった。》