安倍総理「菅ちゃん、派閥つくりなよ」とけしかける 総理の椅子が欲しくなった「菅官房長官」(2)

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 安倍政権が「安定飛行」を続けているのは、間違いなくこの人の力によるところが大きい。総理の絶大な信頼の下、2年4ヵ月に亘って官房長官を務めてきた菅義偉氏。黒子に徹し、ついに総理の椅子に手が届くところまで上り詰めた、「叩き上げ人生」66年間の全て。「総理の椅子が欲しくなった「菅官房長官」(1)」では菅氏を陰で支え国会に送り込んだ「横浜のドン」について述べた。今回は菅氏の国会議員としての歩みについてみていこう。

■後継者を押しのけ出馬

 菅氏が衆院選挙で初当選を果たしたのは96年だ。菅氏が秘書を務めていた横浜を地盤とする小此木彦三郎代議士はその5年前に死去、中選挙区制の神奈川1区の地盤は三男の八郎氏が受け継ぎ、93年の選挙に勝利した。96年に行われたのは小選挙区制が導入されて初めての選挙で、旧神奈川1区は神奈川1区から3区までに分割され、菅氏は2区、八郎氏は3区から出馬している。

「彦三郎さんは死ぬ間際に“ハチ(八郎)を頼む”と周囲に懇願した。にもかかわらず元秘書の菅氏が国政選挙に打って出て、しかも彦三郎氏が圧倒的な強さを誇った西区が含まれる2区から出馬、八郎氏を3区に追いやったことに驚いた人は多かった。実際、菅氏は選挙区で当選したが、八郎氏は選挙区では敗北、比例区で辛うじて当選した」(横浜市政関係者)

 小此木彦三郎氏は“自分の秘書は議員にしない”とのポリシーを持っていた。一方の菅氏は“秘書で終わるな”と自らの秘書たちに語っているといい、

「現在、菅さんの選挙区である横浜市西区、南区、港南区から当選している自民党の市議、県議は大半が菅さんの秘書をしていた人たちです。もはや神奈川2区は菅王国が完成しつつあるといっても過言ではない」

 と、菅氏の長年の支援者は言う。が、彼の国会議員としての歩みは決して順風満帆なものではなかった。

■「裏切りの歴史」

 当選の2年後、98年に行なわれた自民党総裁選では、所属していた小渕派(平成研)を離脱して、梶山静六氏を支援。梶山氏が一敗地にまみれた後は加藤派(宏池会)に所属し、2000年には「加藤の乱」に同調、ここでも挫折を味わっている。

 ようやく政治の表舞台に浮上するのは、「再チャレンジ支援議員連盟」を結成し、安倍晋三氏を総理総裁の椅子に座らせることに成功した06年。第1次安倍内閣では、自身も総務大臣兼郵政民営化担当大臣就任を果たしたのである。

「国会議員になってからの菅さんの歩みは、派閥にとらわれずに自らの信念を貫いてきた歴史とも言える。ただ、別の見方をすれば、その時々によって行動を共にする人を変え続けてきた裏切りの歴史でもある」(永田町関係者)

 07年、安倍総理の体調不良が原因で第1次安倍内閣が砕け散った後も、

「安倍さんはまだ若い」

「もう1回やらせたい」

 そう周囲に漏らし続けていた菅氏は12年、再び安倍氏を担ぎ出すことに成功。以来、2年4カ月に亘って内閣の要である官房長官を務め続けてきたが、

「官房長官に就任してしばらくの間は、“菅さん、将来的に総理を目指す気はないんですか?”などと聞かれても“私は総理を支えるだけ”と、あくまで黒子に徹する意思を示していた」

 と、別の政治部記者。

「ところが最近は同じ質問を投げかけられても否定せず、満更でもない様子で聞いている。また、安倍さんからは“菅ちゃん、派閥つくりなよ”と言われているらしいので、幹事長をやって選挙を取り仕切ったあかつきには総理の座を……という気持ちが芽生え始めたと見ています」

 菅氏の政治の師は、かの「大乱世の梶山」だ。一寸先は闇の政界。ひとたび乱世に転じた時、菅氏は権力の階段の最後の一段に足をかけるだろうか――。

 次回「総理の椅子が欲しくなった「菅官房長官」(3)」では07年「事務所費問題」の裏に隠された看過しがたい事実を暴露する。

「特集 総理の椅子が欲しくなった『菅官房長官』権力の階段」より

週刊新潮 2015年5月7・14日ゴールデンウイーク特大号掲載

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