台風19号 最大幸福か最少不幸か(古市憲寿)

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 東日本を縦断した台風19号は列島に大きな被害を残した。堤防の決壊や洪水や土砂災害が相次ぎ、死者や負傷者も多数に上った。

 被害状況が伝えられるたびに思い出していたのは、宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」という歌だ。「誰か」が願いを叶えるために、別の「誰か」が泣いているかも知れない。この曲には「みんなの願いは同時には叶わない」のかも知れないという問題提起が含まれている。

 今回の台風では試験湛水中だった八ッ場ダムが、その貯水機能によって利根川流域を水害から守ったという説がSNS上を賑わした。

 その真偽はおくとして、一般論として全国のダムが治水に役立っていることは事実だろう。しかし居住地の水没や環境破壊など、ダム事業には多くの犠牲が伴う。大抵の場合、ダムが建設されるのは田舎で、恩恵を受けるのは都市部だ。都市のために田舎に負担を強いてもいいのか。そんな議論も成り立つはずだ。

 もちろん「田舎」も一枚岩ではない。どんな事業にも賛成派と反対派がいて、それぞれが自らの正義を掲げる。その事業によって潤う業者もいれば、割を食うだけの人もいる。

 着工から30年にわたって対立の続く長崎の諫早湾干拓事業、解決の目処が立たない沖縄の米軍基地など、全国各地に「誰か」を幸せにする代わりに「誰か」が不幸になる問題が存在している。3.11で顕在化した原発問題もその代表格だろう。

 難しいのは、こうした社会的な対立は多くの場合、唯一の「正解」がないことだ。どんな決断をしても、一人残らず納得するなんてことはない。

 そうなると最大多数の最大幸福か、最少人数の最小不幸を目指すしかないが、幸福や不幸の数値化は困難だ。しかも仮に「正解」に近い決断があったとしても、それを検証するのは不可能に近い。

 戦後日本には米軍基地があってよかったのか。列島中に原発を整備してよかったのか。いつまでも「正解」は闇の中だ。基地があったから戦争を抑止できたのかも知れないし、ただの無駄だったのかも知れない。「もしも」の歴史は想像で語ることしかできない。

 台風で脚光を浴びたダムは非常時にこそ真価を発揮する施設だ。非常事態というのはいつ起こるかわからない。10年に一度の規模の災害なら備えておくに越したことはない。これくらいなら社会的な合意も得られやすそうだが、100年に一度や千年に一度というレベルならどうだろう。一生に一度あるかどうかの災害のために多大なコストを費やす価値は本当にあるのか判断に迷うところだ。

 しかも人口減少の時代だ。土建事業に無尽蔵にお金はかけられない。ではどうしたらいいのか。SNSでは、新たに大仏を建立すべきだという冗談が流行していた。そうやって利害の調整を放棄したくなる気持ちもわかる。でも実は日本にはすでに何十もの大仏があるのだ。大仏だけでみんなを救うことは難しいらしい。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2019年10月31日号掲載

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