樋口毅宏 男の子育て日記「おっぱいがほしい!」その1

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小説家・樋口毅宏さんは結婚を機に京都に移住した。弁護士として活躍する奥さんに代わり、日中は樋口さんがつきっきりで子育てをしているという。そこで気づいた世の男たちの思い上がり、母になった妻の変化、子どもから教えられることの数々。週刊新潮で連載が始まった「おっぱいがほしい! 男の子育て日記2016」の期間限定、特別配信です。

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(イメージ)

2月15日

 京都に引っ越して半年が過ぎた。東京で生まれ育って四十四年、初めて東京以外に住んでいる。

 妻とは出会ってまだ二年経っていないが、三ヶ月半の子供がいる。

 三年ぐらい前、ツイッターでエゴサをしたら、京都在住の女性弁護士が拙著『タモリ論』について書いていた。彼女の事務所を検索して、すぐに小説を何冊か送ったのが馴れ初め。

 二〇一四年三月二十一日、東京は渋谷で初めて会った。三回目に下北沢で飲んだ明け方、男と女の仲になった。

 それからしばらくして、衝撃的なリクエストを突きつけられた。

「樋口さんの子供が欲しい。一切迷惑をかけません。お金もいらないし、籍も入れなくていいから」

 それがどういうわけか、今では京都に引っ越して、入籍し、妻が事務所に働きに出ている日中ずっと、赤子の面倒を見ている。ちょっと前までは想像もできなかった生活だ。

 洗濯、風呂掃除、買い出しといった家事をすべてこなし、合間に赤ん坊にミルクをやって、オムツを替えて寝かしつけてから、ようやく本業に取り掛かれる。

 小説家を名乗っているが、いまの仕事は短いコラムがほとんどだ。継続的な集中力を必要とする小説の執筆は、とてもではないが無理。

 千字ほどの原稿の最中でも、いったい誰に似たのか、精神的に不安定な息子が泣き出す。放っておくべきかもしれないが、寝室から漏れてくる泣き声が十五分も続いたら、こちらの忍耐も限界だ。

「おーよしよし。いったいおまえは誰に似たんだ。パパか? ママか? それとも、俺の知らないオジさんか?」

 妻もたまに仕事を早めに切り上げて、赤子をあやしてくれる。

 会話の中心はその日の赤子の調子と、世間のニュースだ。妻は口を開けば、日本がいかに男性中心社会で、女性が虐げられているかを滔々(とうとう)と喋り続ける。正座をしながら、疲労困憊の身で御説を拝聴する。

 僕も彼女に会う前から同じことを感じていた。妊娠すると会社を辞めなければならず、子供を産んだ後もスーパーのレジ打ちぐらいしかないこの国の現状について憂えていた。

 しかし、相槌の打ち方が気に入らなかったのか、僕に負けず癇癪持ちの妻はキレやすい。決め台詞はこうだ。

「離婚する! 出てけ。東京へ帰れ!」

 妻よ、それはあなたの嫌いな、旧時代の男根主義者とどう違うのか。

 言い放った直後に、「もう一文(かずふみ)に会えなくなるね」と涙ぐむ。産後ウツを終えても、相変わらず感情の起伏が激しい。赤子は何も知らずキャッキャッと笑っている。

 だいたいこんな毎日です。

 これまで生きてきて、小説を書くのがいちばん大変なことだと思っていた。それは間違い。子供を育てることでした。

 子育てはこの世でいちばんハードで、クリエイティブなワークだ。

 むかし、ビートたけしが「子育ては女の特権」と言っていたけど、冗談じゃない。こんな楽しいことを、女に独占させてたまるか。

 これから毎週京都より、自称ハードボイルド作家の子育て奮闘記をお送りします。どうなることやら。

樋口毅宏(ひぐち・たけひろ)
1971年、東京都豊島区雑司が谷生まれ。作家。白石一文氏に見出され、『さらば雑司ヶ谷 』で小説家デビュー。他の著書に『民宿雪国』『タモリ論』など。

週刊新潮 2016年5月5・12日ゴールデンウイーク特大号掲載

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