「早い話がモルモット」「ほんとに止まるんかいなと」…64年の東海道新幹線「第1号列車」 運転士2人の選抜テストから当日の不安まで

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「そりゃ怖かったですよ」

 で、応募。

「私は大阪で運転士をしていたので天王寺の鉄道病院に連れていかれたんです。回転イスに座らされてくるくる回されたり、眼を閉じたまま歩かされたりして“えらいテストしまんねんな”と思いましたわ」(山本氏)

 そのあたり、大石氏に言わせると、

「早い話がモルモットですよ」

 ということになるのだが、ともかく2人は約5倍の難関を突破し、小田原近くの試験線路で実地訓練に入った。

「たかだか50キロの区間を時速200キロで突っ走るんだから、そりゃ怖かったですよ」(大石氏)

「あの当時は、沿線の標識に従ってブレーキをかけるんです。“今日は時速200キロを出して下さい”と言われた時には、“ほんとに止まるんかいな”と思いました」(山本氏)

 そんな経験もしながら、約4カ月で基本訓練を終了。1964(昭和39)年8月末には新幹線の全線がつながり、開業へ向けての本格的な訓練が再開された。同年9月下旬からは、営業ダイヤそのままで運転されるようになったが、その時点でも、まともに走ることの方が珍しい有様だった。

孫子の代まで語り継がれる栄誉

 両運転士が“第1号列車”の乗務を拝命したのは、いまだ正常運転に不安を残していた、開業1週間前のこと。そんな状態だから、2人とも感激よりも「果たしてキチンと動くか」という不安が先に立ったという。山本氏は、本番までの1週間、

「もしここが故障したらどこに連絡して」

 と、手順を頭の中で再確認しつづけていたほどだったとか。

 両運転士の不安とは裏腹な、華やかな出発式の直後、東京、新大阪の両駅を『ひかり』はスタート。両列車とも順調に運行を続行、定刻の午前10時に、それぞれ終着駅に滑り込んだ。両氏に感慨が湧いてきたのは、それからしばらくしてのことだった。

 その後、山本氏は2年ほどで乗務から離れたが、大石氏は、昨年まで現役で運転し続けた。2人にとって、「新幹線運転士第1号」の事実は、孫子の代まで語り継がれる栄誉だという。

デイリー新潮編集部

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