「あさま山荘事件」“唯一の人質”の心を開いた… アナウンサー、久能靖さんの人生を変えた現場取材
物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は5月2日に亡くなった久能靖さんを取り上げる。
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【写真を見る】事件前は明るい笑顔を… 「あさま山荘」“唯一の人質”だった牟田泰子さん
自分で取材を行う力
1972年、連合赤軍のメンバーが「あさま山荘」に侵入し、管理人を人質に取った。警察との銃撃戦に日本中がテレビにくぎ付けとなる。久能靖さんは日本テレビのアナウンサーとして酷寒の現場で実況を務め、警察が突入した日には9時間も生中継。トイレにも行けず、話し続けて喉が渇くと辺りの雪を口に含んだ。
慰労されたが、事件の背景を理解しておらず見たままを伝えただけで内容が薄かったのではと反省する。
日本テレビで記者や海外特派員を務め、「ニュースプラス1」などでキャスターを担った真山勇一さんは、長年の縁があった。
「久能さんは私より8年先輩。取材は記者、話すのはアナウンサーと分担が明確だった時代に、あさま山荘の経験から、アナウンサーにも自分で取材を行う力が必要だと志願して報道部に来ました。今では記者が現場から語るスタイルが一般的になりました。アナウンサーが報道記者の領域も会得して成功した例はそれほど多くないと思います。久能さんはその先駆者です」
正確さと信頼
36年、千葉県生まれ。父は医師。東京大学文学部を出て60年、日本テレビにアナウンサーとして入社した。スポーツ中継より事件事故の現場担当が増え、あさま山荘事件が転機となる。
先の真山さんは振り返る。
「視聴者が聴いてすぐ分かるように内容を損なわずに平易に報じる必要性や、現場映像に映らない匂いのような臨場感を伝える大切さを自然に教えて下さった」
自分の目で確かめ理解した内容を伝える責任を信条にしながら、報道の根幹は、正確さと信頼だと自戒した。
90年、54歳で退社。フリーの立場で、昼の情報番組「おもいッきりテレビ」「ザ・ワイド」のニュースコーナーを担当する。
「『おもいッきりテレビ』の司会者みのもんたさんは、ニュースを伝えている最中に“えっ”とか“どういうこと”と遮るように質問してきた。原稿を読んでいては中断で混乱します。要点だけのメモを作り、話しかける調子で臨機応変に伝えるのですよ、と私がこのコーナーを引き継ぐ際、助言してくれました」(真山さん)
同番組に出演した芸能レポーターの石川敏男さんも、
「ニュースの語り口に工夫を凝らしていた。だじゃれも言い、照れた雰囲気に味わいがあって場が和んだ」
92年開始の「皇室グラフィティ」(現・「皇室日記」)のキャスターに。皇室ジャーナリストとしても活躍を始めた。皇室文化の継承のため古文書の補修などに携わる裏方の人々も丹念に取材したのが久能さんらしい。
79年、43歳の時に宝塚歌劇団で久美かおるの名で活躍した10歳年下の久美子さんと結婚。子供はいなかった。80代でも記憶は明晰で取材、言論活動を続けた。
5月2日、90歳で逝去。
変わらぬ姿勢で
あさま山荘事件は長年、心のつかえでもあった。関係者100人以上を訪ねて事件を洗い直す取材を行い、2000年に『浅間山荘事件の真実』を著している。
昨年11月、人質となった牟田泰子さんが亡くなった際、本コラムの取材に対し、久能さんは事件から四半世紀以上がたって牟田さん夫妻のお宅を初めて訪ねたと振り返り、〈次第に信用して下さったのか、家に上げてくれるようになり、(夫の)郁男さんとやりとりを重ねるうちに、ふと泰子さんが口を開いたのです。(中略)自分が言った覚えのないことがたくさん記事になった、犯人に大切にされたなど一言も言っていませんとも話してくれました〉と述懐していた。
「久能さんは人柄も仕事の姿勢も誠実の一語に尽きる。だから沈黙を保っていた泰子さんの心を開いたのだと思います。報道にはこぼれおちる部分がある、物事を一つの見方だけで捉えてはいけないよ、とは50年以上前、初めてお目にかかった時からの変わらぬ姿勢でした」(真山さん)


