中日・井上監督に早くも休養説も…就任2年目で消えた指揮官たちを襲った“誤算”

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林なんてヤツの顔は見とうない

 石毛監督同様、2年目の4月に辞任したのは、国鉄・林義一監督である。就任1年目の1964年は、エース・金田正一と対立するなどチームをまとめきれず、5位に終わった。

 当時の国鉄は62年に事業提携したサンケイ新聞との“二頭政治”のバランスが崩れ、サンケイ主導になりつつあった。国鉄側は林監督の更迭を主張するも、ライバル紙に解任報道を先んじられたサンケイ側が面子のため留任を主張し、2年目も続投が決まったといわれる。林監督とそりの合わない金田は「林なんてヤツの顔は見とうない」とオフに10年選手の特権(現在のFA制度の前身)を行使して巨人に移籍した。

 翌65年、Aクラスと勝率5割を目標に新ユニホームを自らデザインし、雪辱を期した林監督だったが、金田が抜けた穴はあまりにも大きく、開幕から6連敗と大きく出遅れた。

 その後、4月23日に国鉄が球団経営から撤退すると発表され、5月10日に「サンケイスワローズ」として新発足することになる。林監督は「この機会にチームも一新することが望ましい」と進退伺を出し、4月27日には砂押邦信二軍監督が新監督として復帰した。シーズン中に球団の経営母体が変わる異例の激動期に、金田を本気で慰留せずに流出させるなど、旧国鉄色を一掃したい親会社の都合に振り回された感もある。

“切り札”と期待され、満を持して就任しながら、2年目の5月に早々と退陣に追い込まれたのは、西武・松井稼頭央監督である。

 現役時代は、チームの生え抜きスター。引退後は3年間西武の2軍監督を務め、前年は辻発彦監督の下でヘッドコーチを務める“王道コース”を歩んできた。就任にあたり、「伝統のライオンズを継承しながら、常勝と育成を目指したい」と熱く意欲を語った松井監督だったが、行く手にはいばらの道が待っていた。

 チームは2019年以降、“山賊打線”を支えた浅村栄斗、秋山翔吾、森友哉が相次いで流出し、戦力ダウン。短期間での建て直しは容易ではなかった。1年目の23年は5位。翌24年も主砲・山川穂高が不祥事で登録抹消されるなど、開幕から45試合で15勝30敗の最下位と低迷した。

 そして5月26日、「選手たちの成長には手応えを感じていましたが、それを結果につなげることができなかった」と成績不振の責任を取る形で、事実上の解任(休養)となった。結果的にチームがじり貧状態のときに監督に就任する巡り合わせの不運が、「もっとやりたかった」という志半ばでの解任劇をもたらしたと言える。

何かのきっかけで流れが変われば

 今回紹介した3人の監督の退任劇は、いずれも成績不振や球団事情が大きく影響していた。ただし、シーズン前半の4、5月であれば、その後の巻き返しが不可能な時期ではない。

 実際、1990年の近鉄は、リーグ2連覇を狙いながら開幕2戦目から9連敗を喫し、一部で仰木彬監督の進退問題まで取り沙汰された。それでも4月下旬以降、スーパールーキー・野茂英雄らの奮闘で徐々に巻き返し、最終的にはAクラスの3位を確保している。

 中日も、大野雄大、柳裕也、金丸夢斗、高橋宏斗と先発投手陣の顔ぶれは揃っている。何かのきっかけで流れが変われば、一転して上昇気流に乗る可能性は十分ある。井上監督は、就任2年目の早期退任という厳しい歴史に名を連ねてしまうのか。それとも、低迷ムードを振り払い、チームを再び浮上させるのか。今後の戦いぶりが、その答えを示すことになる。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘! 激突! 東都大学野球』(ビジネス社)

デイリー新潮編集部

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