没後8年 鉄人「衣笠祥雄」はなぜカープの監督になれなかったのか ハーフに生まれ、壮絶イジメに遭った“優しすぎる男”の差別とコンプレックス

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フロントとの確執

 暴れん坊だった衣笠をレギュラーに起用したのがカープの監督だった根本陸夫氏(故人)だ。後に西武やダイエーのGM的存在として活躍し「球界の寝業師」の異名を取った。根本氏は生前、引退後の衣笠の生きざまについて筆者にこう語っていた。

「タイミング的にキヌにチャンスがなかったことは事実だ。若い頃の振る舞いが問題視された部分もあるだろう。ただ、本人に指導者としてやる意思がなかったとも聞いている。それが生きざまなんだろう。俺は、それはそれでキヌらしくていいと思っているよ」

 確かに運はなかった。衣笠の引退は87年だが、前年には浩二が引退しており、球団が地元出身でもある浩二の監督就任を優先したのは仕方ないことだった。

 また、衣笠と広島フロントとの間にある種の確執があったことも事実だろう。

 先代の松田耕平オーナーに可愛がられていた衣笠を、後継の長男で現在の松田元オーナーが疎んじたともいわれている。引退後も球団が用意した地元テレビ局の解説者を断り、TBS解説者になったことも関係をこじらせた。

 しかし、だからといって球団が衣笠を無視し続けていたわけではない。少なくとも将来的な監督就任を含んだ指導者としてのオファーが何度も行われていたことは間違いない。

 だが、衣笠はそれでも首を縦にふらず、要請を断り続けたのだ。

「世渡りのうまい人もいれば、得意じゃない人も…」

 なぜ頑なに指導者の道を拒んだのか、本人はその理由について多くを語ることはなかった。国民栄誉賞に傷をつけられないというプレッシャーがあったともいわれるが、それだけが理由とも思えない。

 評論家時代の衣笠と焼肉屋で偶然に会った際、「なぜユニホームを着ないのか」と聞いたことがある。

「人には色々な人間関係があります。世渡りのうまい人がいれば、得意じゃない人もいる。ユニホームうんぬんは自分がしゃかりきになってどうこうできる問題じゃない。それに色々な方との出会いの中で知ったのは、自分が監督の器ではないということ。これは本人が一番よく分かっているんです」

 柔らかい笑顔と屈託のない話しぶりは、現役時代と変わらぬものだった。自らを「器でない」と戒める哲学的ともいえる生きざまは、いかにも衣笠らしいが、それでも、「監督をやりたくない」というわけではなかったはずだ。

 実は、前述の根本氏はこうも語っていた。

「衣笠はハーフだったゆえに差別との壮絶な戦いを経験しなければならなかった。人とは違うというコンプレックスが監督の道をためらわせたのではないか。そう思えてならない」

 苦労したからこそ、他人の痛みを人一倍感じることができる優しい男だったが、そんな“優しすぎる自覚”が指導者の道へ進むことをためらわせたのではないか。

 この言葉が強く印象に残っているのは、筆者自身が繊細で優しい衣笠の心を傷つけてしまった1人だという自覚があるからだ。

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 衣笠氏の心を傷つけてしまったという吉見氏の言動とは何か。そして衣笠氏はライバルである山本浩二氏のことをどのように思っていたのか。固い友情で結ばれたもう一人の名選手とは――。【後編】で詳述する。

吉見健明(よしみ・たけあき)
スポーツジャーナリスト。1946年、東京生まれ。法政一高、法政大で野球部に所属し、同期・田淵幸一の控え捕手を務めた。同じく同期の山本浩二、明治大・星野仙一らとも親交を深める。卒業後は銀行勤務などを経てスポーツニッポンの記者となり、野村克也氏の南海監督解任などをスクープする。報道部副部長を務めた後、1991年に独立し、以後はフリーのスポーツジャーナリストとして活動している。

デイリー新潮編集部

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