死の床からまさかの“春画”が… 横尾忠則が振り返る「母の最期」
昔、井上光晴さんに小説を書かされる羽目になったことは、昨年の暮れにこのエッセイで触れました。瀬戸内寂聴さんが母について書いた僕のエッセイを読んで、井上さんに「横尾さんに小説を書かせなさい」と言ったことが事の始まりだけれど、今回、ここで紹介するのは母の死にまつわるエピソードです。
1964年、東京オリンピックの年に僕はヨーロッパツアーの団体に便乗して、最初で最後と思われる海外旅行に出掛けたのです。手持ちのお金はほとんどなかったので、母が郷里の実家を売った残金の75万円を貰って一世一代の海外旅行に飛び立ったというわけです。3週間の海外旅行から帰国したら、病気など思いも掛けなかった母が膵臓ガンで入院していました。驚いて病院に駆けつけましたが、すでに病状は末期的であると知らされました。
僕自身は生活に貧窮していたので海外旅行の資金など全くありませんでした。母は僕の希望を叶えるために、母にとっては高額であった生涯かけて築いた財産の一部を出資してくれたのでしょう。僕はそんな繊細な感覚など持ち合わせておらず、その辺の金銭的な事情には全く無頓着のまま、あと先き考えないまま生来の性格に従がったのです。
この頃、僕は勤めていたデザイン会社を退(や)めて、フリーのデザイナーとして、貧乏劇団などのポスターの仕事をしていました。母の看病につき合うために病院の許可を得て、病室の一角に仕事机を持ち込んで臨時のアトリエを作り母と同居しながらベッドの横で土方巽の舞踊のポスターを描いていました。その公演の初日にはどうしても顔を出す必要があったので、母の病状は深刻だったのですが出掛けてしまったのです。
公演の終了と同時に病院に帰りましたが、病院の廊下を医師と看護師があわただしく駆けている所で、もしやと案じながら母の病室に入ると、母のベッドの廻りには人が集まっていて、直感的にそれが母の死を暗示していると気づきました。母が口から黒い液体を流すと同時に、医師は「ご臨終です」と告げました。間一髪で母の死に接することができたのですが、僕の帰ってくるぎりぎりまで生命を保ち続けていたのです。
その後の数時間は全く頭の中が空白状態で記憶はありません。覚えているのは母が死の床で身体に巻いていた胴巻から汗にぐっしょり濡れた春画が4枚出てきたことです。4枚の内1枚は裏にカーボン紙を当てた跡が残って、絵を表から鉛筆か何かでなぞったあとが生々しく残っていました。
なぜ、母が死の床まで春画を抱いていたのか、理解に苦しみます。母が僕のために最後まで残こした暗黙のメッセージのように思われましたが、その意味は僕には理解できませんでした。一体母はこの春画を通して何を僕に語りかけようとしたのでしょうか。
瀬戸内さんは、僕の母の死の床から出てきた春画に興味を持たれたのだと思いますが、もし小説にするなら、最高の題材であったのかも知れません。死と春画と血の繋がっていない息子の三位一体は瀬戸内さんの筆にかかれば、死と性愛を主題にした小説となったのでしょう。
母と僕は親子だといっても、血の繋がっていない関係です。母の死と春画が何を物語るのか、わかりません。瀬戸内さんは4歳の子供を置いて家出し、その後和解したそうですが、そんな瀬戸内さんなら一般の人間にはちょっと想像もつかないご自身の親子関係を通して、僕と母の親子関係を文学作品として描けたかも知れません。話は変わりますが実は僕の両親は結婚をしていませんでした。そこへ養子となって実の両親から切り離されて、僕という存在が現われたのです。この辺の複雑な関係は全くわかりません。
僕の両親が実の親でないことを知ったのは10代の終りの最も多感な年齢の時でしたが、この問題に関しては極力考えないようにしてきました。全て天命が与えた僕の宿命と運命であるとして、それ以上のことは極力考えないように生きてきたと思います。
現在でも僕は何かにつけてなるべく深く考察するようなことを避けて生きていますが、それは僕のこのような境遇と深く関係があるように思います。世間は考える生き方を奨励しているようですが、僕は極力考えない生き方が自分にとっては最も生き易い生き方であると考えています。
母の死からすでにもう何十年も経っていますが、あの母の死の瞬間と病院で仕事をしていた頃のことはなぜか、鮮明に映画の一齣(こま)一齣を見るように記憶しています。そんな記憶を抱いたまま僕は死んで行くことになります。そして死後、もし母が迎えに来てくれた時は何んだか自分の親不孝が恥ずかしく思えて、逃げたくなるんじゃないかと思います。


