「お前なんか死んでしまえ」とカミソリ同封の手紙が…「あさま山荘事件」人質に取られた「牟田泰子さん」を襲った信じがたい「誹謗中傷」「流言飛語」 「何のために助かったのか」と泣き明かした夜も【事件から54年】
「連合赤軍 あさま山荘事件」が起きたのは、1972年2月のこと。この2月で54年の歳月が流れたことになる。極左過激派集団「連合赤軍」のメンバー5名が、長野県軽井沢の河合楽器保養所「浅間山荘」で女性管理人を人質に取って10日間、籠城。逮捕されるまでの間、警官2名と民間人1名、計3名の死者が出ている。
事件を巡っては、昨年、大きな出来事があった。10日間の間、人質となった管理人・牟田泰子さんが11月13日、85歳で亡くなったのである。泰子さんを巡っては、救出されて以来、半世紀以上にわたり、おびただしい数のメディアが取材に訪れたが、そのほとんどに沈黙を貫いたことでも知られる。「週刊新潮」では、事件から8年後の1980年、引き続き同山荘で管理人を務めていた夫の郁男さんに取材し、その理由を詳細に報じている。当時の記事から、泰子さんを“苦しめたもの”、その正体を探ってみよう。
【前編】では、救出後、泰子さんが「(犯人に)だいじにされた」「早く元気になって家族みんなと一緒に遊びたい」と発言したことについて述べた。一方で、殉職警察官へのおくやみの言葉が聞かれなかったことから、世論は「被害者」である泰子さんに対し、信じがたい反応を見せた。
泰子さんにどのような「誹謗中傷」が届き、「流言飛語」が流れたか――【後編】で詳述する。
【前後編の後編】
(「週刊新潮」1980年2月21日号記事を一部編集し、再録しました)
***
【写真を見る】事件前は明るい笑顔を…半世紀の間、沈黙を貫いた牟田泰子さん 鬼の形相で警官に抵抗する実行犯の姿も
カミソリの入った手紙
この記者会見がテレビに放映され、新聞にのると、その日から泰子さんが入院していた軽井沢病院に電話や手紙が殺到した。
木戸千元・軽井沢病院院長が当時をふりかえって慨嘆する。
「あの発言、私は全く正常な本当の気持ちだったと思うんですよ。しかし、世間じゃそう取らない人もいたんですね。全国から刺激的な手紙が色々きたんです。激励の手紙は渡してたんですが、どういう手違いか、おまえなんか死んでしまえ、みたいなのが一通、彼女の手に渡ってしまった。それから、彼女は鬱状態になってしまったんですね。世間の人は、警官が2人も死んだのに、おめおめと生きて帰ってきてということになるんでしょうか。中にはカミソリの入った手紙もありましたし、ひどかったですよ。信じられんような内容の手紙がたくさん来た。ああ、日本人とはこういう人たちだったのかと思いましたよ」
事件の渦中で、一番冷静だったのが泰子さんの夫、郁男さんだったといわれる。あまり冷静なので、「あの二人、夫婦仲がうまく行ってないんじゃないか」と、関係者の間で話が出るほどだったという。それも「離婚」の噂話に結びつけられてしまった一因かもしれない。
[1/2ページ]


