清水ミチコが語る「ものまね」芸の原点 山口百恵でファンを作った中学時代、高校では夜な夜な桃井かおりを“特訓”
タモリに衝撃 「音楽と笑いを融合させたものをやりたい」
高校入学後、テレビに出ていた一人の男に目を引かれた。タモリだった。タモリのラジオを聴くようになり、さまざまな芸を見せるタモリに触れ「自分もやってみたい」と思うように。高2の終わりに発売されたファーストアルバム「タモリ」にも衝撃を受けた。
「そのLPをプロデュースしていたのが、放送作家の高平哲郎さん。替え歌だとかをいろいろ作っていて、もう面白くて。それで高3のときに高平さんに『弟子にしてください』って手紙を書いたんですよ。生まれて初めて書いたファンレターで(笑)」
多感だったこの頃には、タモリのほかにも、矢野顕子や松任谷由実など、今につながる音楽をどんどん吸収していった。一方で、糸井重里が主要スタッフを務めていた雑誌「ビックリハウス」も好んで読んでいた。
高校を卒業すると上京し、短大の家政科に進んだ。実家のジャズ喫茶を継ぐことも頭の片隅にあったが、とにかく東京が楽しく、アルバイトをしながら糸井のクリエイター養成講座にも通った。また「ビックリハウス」やラジオ番組にネタを投稿し、採用されることもままあった。バイト先のオーナーにその話をしたところ、ラジオ番組のディレクターを紹介された。ユーミンや矢野など得意のものまねをデモテープに吹き込み送ると採用された。「クニ河内のラジオ・ギャグ・シャッフル」の放送作家を務めることになり、アシスタントとしての出演も決まったのだ。
感じた「ものまね」のパワー
芸能界へ足を踏み入れることになったこの番組では、「ものまね」のパワーを痛感することになった。披露していたのはコントとものまね。ものまねは桃井のほか、黒柳徹子や楠田枝里子などをやっていた。ラジオのためもちろん表情は見えないが、声の質だけでリスナーを納得させる力が、当時からすでにあったようだ。
「皆さん、テレビで活躍されていたので、誰もが分かるものまねでしたからね。それに女性でものまねをする人は当時まだ珍しかったんです。ものまねの何がすごいかと言うと、熟考したコントより、ものまねを一つ入れたコントのほうが(リスナーの)理解が早いんです。便利というか、自分を助けるというか」
観客を目の当たりにしながら披露したステージでは、ライブの楽しさにも触れることになった。1986年2月16日、小劇場「渋谷ジァン・ジァン」で初めて開いた「モノマネ講座」。サブカルの聖地とも呼ばれた同劇場に立った清水は評判を呼び、「モノマネ講座」は同年の5、7、11月にも開かれた。
「ジァン・ジァンにも出ていた先輩芸人のマルセ太郎さんに『(芸能人の道が)ダメになったらどうすんの?』と尋ねられて、当時、もう結婚するつもりだったので『普通の主婦になるつもりですよ』と答えたら、『そんなに甘くないよ』と言われたんです。『この世界は楽しすぎてそんなに簡単に辞められないんだから』という意味でした。今考えても、確かにそうだな、と。もしお金にならなくても、舞台に立ってみんなに喜んでもらえたら、こんなに楽しいことはないので。趣味でもありますね」
***
音楽と笑いを融合させ、ものまねという武器で芸能界を突き進み始めた清水。第2回【「平野レミさんはいまだに『下品すぎ』と言われますが(笑)」相手に恵まれたものまね芸、大失敗のネタも… 清水ミチコが大舞台で見つけた“自分”】では、苦悩も感じた人気テレビ番組時代や、今や毎年恒例となっている日本武道館公演などについて語っている。






