「夏の甲子園」の“歴史的大敗”が政治問題に発展…「どうしてこんなに弱いのか」「県民の意識高揚にもつながる大事な問題だ」
県勢初の8強入りを達成
7回は6長短打を集中して5点を追加。無死一塁で打席に立ち、「一発を狙った」清原は左飛に倒れたが、「あんなに高々と上がったレフトフライは、山形では見たことがなかった」と左翼手を驚嘆させた。この日は先発9人中6人までが3打点以上を記録する猛攻にあって、5打数2安打1打点2四球とあまり目立たなかった清原は「あの試合はしんどかった。誰がアウトになるのかという感じやったから」と回想している。
さらにPLは8回にも2安打と敵失に乗じてとどめの2得点。この瞬間、春夏の甲子園を通じて史上初の毎回得点が記録され、これまた春夏通じて史上最多の29得点となった。
東海大山形は、エース・藤原安弘が県大会で肘に重度の炎症を起こし、本来なら投げられる状態ではなかったが(試合後に剥離骨折が判明)、エースの責任から打たれても、打たれても歯を食いしばり、5回まで132球、被安打21、四死球4、失点20で投げ切った。だが、エース降板後の6回以降の3イニングもいずれも失点を重ねるという結果に、滝公男監督も「1回ぐらいは0点に抑えられると思ったが……」と絶句した。
27点差を追う9回、東海大山形はPLの3番手・小林克也に4長短打を浴びせて3点を返すと、春に続いて甲子園のマウンドに上がった清原からも2つの押し出し四球で2点をもぎ取ったが、反撃もここまで。この回11人目の打者・高橋勝利が一飛に倒れ、PLが29対7で勝利した。
プロのチームも顔負けの破壊力に、プロで活躍する同校のOBも驚くばかり。西武・金森栄治は「かわいげがないほど強過ぎるね。今年のチームじゃ、オレでもレギュラーになれないんじゃないか」と苦笑し、広島・小早川毅彦も「相手の青春を壊しちゃいましたね」と東海大山形に同情的だった。
一方、山形県では、歴史的大惨敗から約2ヵ月後の同年10月、県議会予算特別委員会で「我々山形県民は大変悔しく、残念な思いをした」「県民の意識高揚にもつながる大事な問題だ」などの声が挙がり、高校野球が政治の場で論じられる異例の事態となった。
山形県勢はこれまで全国で唯一甲子園8強以上がなく、夏の甲子園が1県1代表制になった1978年以降も、2勝8敗と負け越し。うち7度が初戦敗退だった。長年にわたる低迷が、29失点という歴史的惨敗を契機に、「どうして勝てないのか」「全国との差を縮めたい」という県民レベルの活発な議論を呼び、改革への大きな第一歩となる。
こうした流れを受けて、県高野連も強化に本腰を入れるようになり、1997年末に野球強化特別本部が設置されると、秋の県大会上位3校を冬季に雪のない地域で合宿させるなど、本格的な強化事業が推進された。
この間、東海大山形も悪夢の大敗から2年後の1987年夏に甲子園初勝利を含む2勝を挙げ、79年の日大山形以来の県勢の最高成績・ベスト16入りを実現。前出の強化事業を経た2006年夏には日大山形が県勢初の8強入りを達成し、13年夏にも、奥村展征(元巨人、ヤクルト)、中野拓夢(現・阪神)らの活躍で初の4強入りをはたしている。
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