二代目林家三平が長嶋茂雄さんに聞かされた「忘れられない言葉」とは 「僕の背番号は3だったし、君のお父さんも三平で3だから…」
父の持ちネタに挑戦
今月3日に死去した「ミスタープロ野球」こと、長嶋茂雄・読売巨人軍終身名誉監督と同様に、昭和期に活躍した「爆笑王」が落語家の初代林家三平だ。
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全盛期は、正月三が日だけで、実に100本以上のテレビやラジオ番組に出演する人気ぶりだった。今年はそんな初代三平の生誕100年に当たることで、今月11日から20日まで東京・浅草演芸ホールの昼の部で「初代林家三平生誕百年記念興行」が開催された。
トリを務めた、次男の二代目林家三平(54)に話を聞いた。
「落語家で生誕記念の興行を行うのは父が初めてではないでしょうか。先代の誕生日は11月30日で、時期的にはちょっと早いんですが、生年から100年という節目に“初代三平はどういう存在だったのか”と、父の原点を振り返ってみていただきたいと考え、記念興行を開くことにしたのです」
出演したのは、長男の林家正蔵(62)を筆頭とする林家一門をはじめ、初代三平を知る林家木久扇(87)、春風亭小朝(70)、柳亭市馬(63)といった顔触れだ。
「アコーディオン奏者にも出演していただき、父の持ちネタだった“歌もあるリズム落語”にも挑戦しようと思っています。ゲストには、毒蝮三太夫さん(89)や三遊亭好楽師匠(78)、テリー伊藤さん(75)、初代三平フリークという関根勤さん(71)、THE ALFEEの坂崎幸之助さん(71)らをお招きして、日替わりで対談も披露する予定です(取材当時)」
いまも胸に残る“人生の励みの言葉”
初代三平が真打に昇進したのは、長嶋が巨人軍に入団したのと同じ昭和33年。銀幕を代表するスターだった石原裕次郎をはじめ、各界の著名人と銀座で酒食を共にするなど幅広く親交を深めたという。
「長嶋さんが終身名誉監督に就任された平成13年ごろのことです。スポーツ新聞にコラムを執筆していた私が球場に取材に出向くと、長嶋さんは大勢の記者の中からすぐ私を見つけて手を振ってくれたり、“日焼けしたなあ”なんて気さくに声をかけてくれたりしたものです」
いまも胸に残る“人生の励みの言葉”を聞かされたのもこの時期だったそうで、
「長嶋さんは“僕の背番号は3だったし、君のお父さんも三平で3。3は英語で言えばSUN。太陽だから、僕らはいつも輝く存在じゃないといけないんだ”と、繰り返し言ってましたね」
初代の三平は昭和55年に54歳という若さで死去。当時、二代目三平は9歳。まだ小学3年生だった。
「亡くなる直前、父に色紙を手渡されたんです。そこには“笑はせる腕になるまで泣く修行”と書いてあった。父のように高座に上がった瞬間、寄席全体がぱっと明るくなる人はいまも他にはいない。そんな父の芸風を受け継いでいきたい」
昨年12月、二代目三平は父親が他界した時と同じ年齢に達した。
「父を野球で言う先発ピッチャーとするなら、私は中継ぎ。あの芸風を私の次の代にもしっかりつなげていきたいと考えています」
秋が深まる11月には、改めて亡き父に思いをはせる落語会を行う予定という。