「ほら、あれがお父さんの星よ」妻子の心に生き続けた日本兵の遺志

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「ありったけの地獄を集めた」と形容される沖縄戦で、遠く及ばない兵員数や物量をもって米軍からの猛攻を受け、窮地に追い込まれていた日本軍。伊東孝一大隊長が率いた第24師団歩兵第32連隊・第1大隊に迫りくる米海兵隊の精強部隊を食い止めたのは、たった一人の「凄腕のスナイパー」、松倉秀郎上等兵だった。しかし、次々に味方の兵士を狙い撃たれパニック状態に陥った米軍によって、松倉が逃げ込んだ陣地壕は集中砲火を浴び、彼は還らぬ人となる。【本記事は全3回の第3回です】

 終戦の翌年、沖縄の収容所での抑留生活を終え内地へ復員するとすぐに部下の遺族へ「詫び状」を出す仕事に取り掛かった伊東。松倉上等兵の妻は伊東に宛てた返信のなかで「本当は(主人の)後を追いたい心で一杯なのでございます」と筆舌に尽くしがたい心痛を吐露したのだった――。

※本記事は、浜田哲二氏、浜田律子氏による初著書『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部を抜粋・再編集し、第3回にわたってお届けする。

「父のことは記憶にないの」と号泣した遺族

 松倉秀郎さんの妻・ひでさんが書いた2通の手紙は、2017年8月、長男・紀昭さん(80歳)と長女・恭子さん(74歳)へ返還した。私たち(注:筆者であるジャーナリスト夫妻)が訪ねた時、残念ながらひでさんはすでに亡くなっていた。

 秀郎さんとひでさんの間には、3人の子どもがいた。長男と、その下には双子の姉妹。戦争未亡人になったひでさんは、役所の支所に勤めながら幼子を立派に育て上げる。

 かつて母が書いた2通の手紙の内容に触れ、顔を覆って泣いていた双子姉妹の姉・恭子さんが咽び声で言葉を絞り出した。

「父のことは記憶にないの」

 祖父の家で風呂に入れてもらった帰り道、母に背負われて、夜空を見上げたのが忘れられない想い出だという。

「ほら、あの一番輝いているのがお父さんの星よ、と母が指さすの……」

 その後は言葉にならず、誰はばかることなく号泣する。

「教育者になりなさい」――父の遺言

 松倉家の長男・紀昭さんは幼い頃、警察官だった父に連れられて刑務所の見学へ行った。

 そこで父が言う。

「悪いことをした人を罰するより、悪いことをしない人を育てることが大切だ」

 戦地から送られてきた思いやりに溢れる手紙のなかにも、長男への訓示が綴られている。

「母に苦労を掛けず、勉学に励みなさい」

 こうした教えを受けていたゆえ、貧しい暮らしで苦労した母を助けるため、高校を卒業したら、すぐに就職しようと準備していた。

 ところが、進路相談の折に母から突然、伝えられる。

「あなたは教育者になりなさい。それがお父さんの願いでもあり、遺言よ」

 驚いたが、父の言葉が蘇った。

「悪いことをしない人を育てることが大切だ」

 紀昭さんは苦学して教育大学へ進み、小学校で教職に就く。父の願いを叶え教育者となり、教え子を決して戦場に送るまい、との決意で平和教育に力を注いだそうだ。

 戦禍の艱難辛苦に翻弄される生き方を、次世代にはさせたくないと心に誓う紀昭さん。自らの子どもも教育者として育て上げ、孫は医師になった。父母から引き継いだ、命を大切にする教えを家族にも伝え、今後も貫きたいと話している。

松倉は、けっして「犬死に」したのではない

 亡き母の手紙を受け取ったのち、長男・紀昭さんは父・秀郎さんの元上官にあたる伊東孝一大隊長へ面会を申し込む。

「戦争は父のような下っ端が死んで、偉い人が生き残るものだ」

 そんなわだかまりから、生き残った大隊長の話を聞いてみたいという願望があった。

 面会の当日、紀昭さんの長男で筑波大学で教授を務める千昭さんも同席したいと申し出てきた。体調が芳しくない紀昭さんを心配していたからだ。

 そこで、秀郎さんを戦死させたことを涙ながらに謝罪し、けっして「犬死に」したのではなく、立派な働きをしたことに誇りを持ってほしい、と語る伊東大隊長の本心に触れる。さらに、母の万感の想いがこもった手紙を大切に保管していた経緯も知った。

 帰り際、横浜の駅で、紀昭さんが両の手を差し出して私たちに握手を求めてきた。

「ありがとうございました。母の手紙にもあったとおり、伊東大隊長は立派な方でした。その下で働けた父は、さぞかし幸せだったのでしょう。それを知れたことで、もうわだかまりは消えました」

 目には光るものがある。

「今の私には、伊東大隊長が実の父のように感じられます。ぜひ、戦没した父の分まで、長生きされるようお伝えください」

 別れを惜しむかのごとく、列車の出発の直前まで、握り締めた手を離してくれなかった。

壕内で見つかった「丸いメガネ」

 この遺族にはまだエピソードがある。

 紀昭さんの孫である啓佑さんは、過疎地で奉仕する総合診療医を目指し、現在は愛知県で専攻医をしている。九州地方の国立大学医学部で学んでいた19年、沖縄を訪ねてきて、国吉台地で遺骨収集に参加してくれた。

 曾祖父の秀郎さんが戦死した壕などで約1週間、真っ黒に焦げた天井や壁の下の地面を掘って、遺骨を探した。

 そして最終日、暗い壕内で祈りを捧げる。

「僕が曾孫だよ。命を紡いでくれてありがとう。ひいおじいちゃんのことは忘れないからね。また来るよ」

 その翌年、松倉上等兵が戦没したとされる壕の監視哨口の下で、当時のものと思われるメガネを発掘した。発見したのはボランティアメンバーの高木乃梨子。啓佑さんが土にまみれて掘り進んだ窪みのすぐ脇から見つけた。

 秀郎さんの写真と見比べると、出征時に掛けていたものと形や特徴がほぼ同じに見える。

 戦闘時の状況や埋もれていた壕内の様子などを説明しながら、それを紀昭さんと恭子さんに見せた。

「このスタイルの丸いメガネはねぇ。当時、みんな同じような形でしたから……」

 首を傾げ、苦笑いしながら手に取る。

「でもこれ、父が掛けていたのに似ているよね。どれどれ」

 恭子さんが掛けてみると、その顔は秀郎さんの遺影の写真と瓜二つになった。

 驚いた紀昭さんも掛けると、これも瓜二つ。見合わせた二人の顔が真顔になった。

「これは父のものだと思います。だって、写真とそっくりだもの。孫の啓佑が掘った場所の近くに、埋もれていたのですよね。もう絶対にそうでしょう。たとえ違ったとしても、父の戦友のものです。頂けるのですよね。大切にします」

 その後も、互いにメガネをかけた顔を見合わせて、和やかに笑い合っている。

 秀郎さんとひでさんが、奇跡を生んでくれたのかもしれない。

(終)

『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部抜粋・再編集。

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