米軍をパニック状態に追い込んだ「凄腕のスナイパー」の最期

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 太平洋戦争で有数の激戦地として知られる沖縄。犠牲になった戦没者は二十数万人に上るといわれ、米軍の史料でさえ「ありったけの地獄を集めた」とこの戦争を形容する。

 広く知られていることだが、兵員の数はもちろん、武器弾薬や医療品、食料など物資の面でも米軍に圧倒されていた日本軍。「勝てるはずのない戦争」なのは明らかだった。それにもかかわらず、米海兵隊員らを次から次へと狙撃しては倒しパニック状態に追い込んだ一人の兵士がいた。この「凄腕のスナイパー」とは、いったいどんな存在だったのか。

 当時、第24師団歩兵第32連隊・第1大隊を率いた伊東孝一大隊長は、凄絶な戦闘の模様を述懐する――。

※本記事は、浜田哲二氏、浜田律子氏による初著書『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部を抜粋・再編集し、第3回にわたってお届けする。【本記事は全3回の第1回です】

護身と「自決」用に支給されていた手榴弾

 1945年6月4日、大隊と配属の各隊は糸満の国吉地区の丘陵(以下、国吉台地)で、配置についた。隆起したサンゴ礁の切り立った台地の北側に、横一線で並んで陣を構える。ここは、摩文仁(まぶに)にある軍司令部を守備する、最後の防衛線の西端だ。

 進撃してくる敵を正面から防御するには、約800メートルの幅で迎え撃たねばならない。大隊といえども1個中隊レベルの員数では無理があった。ゆえに、本部も第一線で戦うため、防衛ラインの中央に位置させる。それは、断崖を背にした背水の陣で、すべての兵が決死一丸となるためだ。

 空を見上げれば米軍機が我が物顔で乱舞し、西方海上にはその艦船が憎々しいまでに悠然と浮遊している。戦車を伴った敵の歩兵は、これらの支援を得て、物資や人的な数量においても圧倒的な勢いで迫ってくるだろう。

 それに対して、武器、弾薬だけでなく、水や食料も不足する我が軍。兵士の数も足りず、解散した野戦病院の軍医や衛生兵、経理部の主計兵らが配属されてきた。彼らのほとんどが、戦い方を知らず、銃も持っていない。手榴弾を護身と自決用に一発ずつ支給されているだけだ。

「もう、これが最後だ」――絶望的な戦況のなかで

 さらに、野戦病院や露営地の救護所で治療を受けていた部下たちも、最期の地を求めて原隊に復帰してきた。中には、文字どおり這って戻ってきた者もいる。まさに、総動員で敵を迎え撃つのだ。こうした兵員まで数えると、五百数十名となったが、戦闘が可能な人員は135名に過ぎない。

「もう、これが最後だ」と誰もが覚悟を決めた陣地で、将兵たちは絶望的な面持ちで配備に就こうとしている。そんな雰囲気の中、ひとり静かに銃の分解掃除をしていたのが、松倉秀郎上等兵だった。

 冷静沈着に見えるが、全身に気迫がみなぎっている。この兵の、いざ戦わんかなの気持ちに私は奮い立たされた。これこそが、すべての将兵に通じる覚悟であってほしい、と願わずにいられない。

 松倉の働きはそれだけではない。大隊長直属の大隊本部に所属していた将兵らは、指揮官らがこもる洞窟陣地を守備したり、連隊本部との重要な連絡を伝達したりする役割を担う。ここで本格的な戦闘が始まる前は、比較的元気な者たちが夜間、斬り込みに出た。

 敵にゲリラ的な夜襲を仕掛けるだけでなく、米軍の幕営地などに備蓄された物資や食料などを、こっそり奪いにいく目的もある。それを負傷したり、衰弱したりして動けない戦友たちに持ち返ってくるためだ。

 松倉上等兵も、同郷の国島伍長らと一緒に、しばしば斬り込みを兼ねた物資の調達に向かう。徴兵される前は北海道警の警察官だった。

「平時ならば許されないよな」

 苦笑いしながら、傷ついた仲間たちに食料や医薬品を配っていたという。

米軍の進撃を食い止めた、一人の兵士

 そして6月9日、米軍の進撃が始まり、風雲急を告げる国吉台地。サンゴ礁の岩山に設営した日本軍陣地へ、戦闘機や艦船からの砲弾が降り注ぐ。それが一日続いた後、満を持したように大人数の歩兵が、戦車を伴って襲い掛かってきた。

 ここでも大隊将兵らは死に物狂いで抵抗する。歩兵には機関銃や小銃などで猛射を浴びせて撃退し、戦車の進撃は速射砲や地雷などで食い止めた。むしろ当初の2日間は、日本軍側が押している感触すらあった。

 だが、米軍はその物量と圧倒的に上回る兵員数で、じわりじわりと攻撃の圧を加えてくる。前進陣地として第3中隊などを配置した隣の照屋高地にも、猛攻が加えられていた。

 国吉台地の我が大隊本部も同じ状況だった。米海兵隊の精強部隊が、私たちが潜伏している洞窟へ肉薄してくる。

 後に知り得たことだが、その時に日本軍陣地からひとりの兵士が躍り出て、単発式の銃で前進してくる米兵を狙い撃ち始めたそうだ。米軍側も自動小銃などで応戦するも、神出鬼没に小型の野戦陣地や岩陰を利用しながら狙ってくるので、的が絞り切れない――。

 ひとり、またひとりと海兵隊員は倒れ、破竹の進撃が食い止められた。

 堪りかねた米側は自軍の砲兵へ、無線で狙撃兵の居場所を指示する。

「あの岩塊が並んだ先にあるピナクル(小尖塔)のような岩山の近くにいる!」

 だが、砲撃の間は沈静するも、歩兵が進み始めると正確な射撃が再開された。

「あいつは厄介だぞ……」

 後方で戦況を見つめる米軍の指揮官は思わず唸ったという。

 少なくとも22名の米兵が負傷もしくは戦死させられていた。

「誰か何とかしろ!」

 遮蔽物のない前線のサトウキビ畑に伏せている海兵隊員が叫ぶ。

逃げ込んだ壕は、敵の猛攻撃を受け…

 米軍側もここで怯んではいられなかったようだ。この台地の日本軍陣地を落とさないと、摩文仁の司令部へ攻め込む時、背後を衝かれる恐れがある。

 横一線に陣を敷く日本軍に向かって左側にいた米海兵隊員らが回り込み、この狙撃兵が逃げ込んだ洞窟が特定されてしまった。ピナクルに近い岩塊の下に、東西へ延びる長さ10メートル前後の陣地壕がある。その西側の出入り口に火炎放射され、さらに監視哨に続く天井の空気穴からは爆雷が投げ込まれた。

「敵襲!」

 歩哨の叫び声が、大隊本部壕の中に響き渡るのと同時に、激しい爆発音と衝撃が壁面を揺らし、天井から岩の塊がバラバラと落ちてきた。土煙が収まった後に国島伍長が駆けつけると、西側の出入り口付近にいた兵士らが3名倒れている。

 その中には、逃げ込んできた狙撃兵もいた。眼鏡が吹き飛んで、顔はすすで真っ黒になっている。

「しっかりしろ、松倉!」

 国島伍長が抱き起こすも、すでに事切れていた。

 その手にはまだ銃身が冷め切っていない、ボルトアクション式の99式小銃を握りしめて……。

 ***

 【第2回】〈米兵の猛攻を食い止めた狙撃手の妻は「後を追いたい」と泣き崩れた〉に続く。

『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部抜粋・再編集。

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