日本人投手を小ばかにした「巨人史上最強の助っ人」に仕返し成功! 大洋エース「遠藤一彦」が見せた1985年の“痛快ピッチング”

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「三振を取るしかない」

 そのチャンスが訪れたのは、1985年5月11日の巨人戦だった。

 大洋・遠藤、巨人・江川卓両先発の投げ合いは、5回を終わって、大洋が1対0とリード。だが6回、遠藤は江川と篠塚利夫に安打を許し、2死一、二塁のピンチで、3番・クロマティを打席に迎えた。

 ここでクロマティを抑えれば、勝利はほぼ不動になるが、タイムリーを打たれたら、試合の流れは確実に巨人にいってしまうという最大の山場。打たせて取ろうとして、テキサスヒットになったら最悪だし、内野ゴロや外野フライでも、意趣返しをするにはインパクトに欠ける。そう考えた遠藤は「三振を取るしかない」と意を決し、あえて速球でグイグイ押した。

 クロマティが速球に強いのはもとより承知の上だったが、この日の遠藤は、ライバル視していた江川の調子の良さに触発され、スピードが乗っていた。

 そして、カウント2‐2から内角に142キロ直球を投じると、クロマティのバットは空を切った。変化球で緩急をつけてくると思わせておいて、意表をつく速球勝負で狙いどおりの鮮やかな三振奪取。まさに「ここの出来が違うぜ!」と言える痛快な場面だった。

「大リーグでもスターになれるピッチャー」と絶賛

 直後、遠藤は少し照れくさそうな表情を見せつつも、右手人差し指で頭をツンツンと指しながら、意気揚々とベンチに引き揚げていった。

 巨人打線に三塁も踏ませず、3安打完封し、連勝を「8」で止めた試合後、遠藤は「日本人のピッチャーが打たれると、クロマティにいつもあの仕草をやられてたでしょ。一度やってみたかったのよ。ウッフッフ」と愉快そうに笑った。

 一方、クロマティは後日、江本孟紀氏の取材に対し、「あのときはフォークが1球しかなく、あとは全部ストレートの速い球だった。それだけに余計ショックが大きかった」と打ち明けたという。さらにクロマティは自著『さらばサムライ野球』(講談社)で、遠藤が大リーグでもスターになれるピッチャーだと絶賛している。

 遠藤はその後、通算3度目の最多勝を目前にした1987年10月3日の巨人戦で、走塁中に右足アキレス腱断裂の重傷を負い、選手生命の危機に立たされたが、抑えに転向した90年に6勝21セーブを挙げ、カムバック賞を受賞。15年間の現役生活で通算134勝58セーブを記録している。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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