イチローを筆頭に“大化け”する選手が続出…「ドラフト4位」から球界のスターに駆け上がった男たち

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打者としての評価は「線が細い」

 今年のドラフト会議では、3位以内の指名を希望した“広陵のボンズ”真鍋慧がまさかの指名漏れに泣いた。ドラフトの“順位縛り”は4位以下が対象外になるパターンがほとんどだが、実は4位指名から球界を代表するスターになった選手も多く存在する。【久保田龍雄/ライター】

 最もよく知られているのが、1991年のオリックス4位・イチロー(鈴木一朗)である。愛工大名電時代は2年夏、3年春に2度甲子園に出場も、いずれも初戦敗退。3年時はエースだったことから、投手のみの評価で獲得を見送る球団もあり、高校通算打率5割超を記録した打者としての評価も「線が細い」の声が多かった。

 そんななかで、イチローの類まれな打撃センスにとことん惚れ込んだのが、オリックス・三輪田勝利スカウトだった。三輪田スカウトから「面白い選手がいる」の報告を受け、フリー打撃を見に行った中田昌宏編成部長も、芯を外さず、放った打球の9割がライナーという素材の良さに目を見張り、「3位で行かないと獲れない」と後押しした。

 だが、同年のオリックスは1位・田口壮(関学大)をはじめ上位3人が内定していたため、4位になった。当初は5位以下を予定していたが、三輪田スカウトが「4位で指名しなければ、中日に取られる」と強硬に主張し、繰り上がったという話も伝わっている。

 その中日は、イチローか中村紀洋(渋谷高)のどちらかを3位で指名する予定だったが、1位と3位の抽選に外れ、補強プランを変更せざるを得なくなり、結果的にイチローを逃している。

 幼いころからプロ野球選手になるのが夢だったイチローは「評価してくれるなら野手としてだと思っていました。アベレージ打者の篠塚(和典)選手を目指します」(同年11月22日付・中日新聞)と語っている。

 その言葉どおり、入団3年目の94年、仰木彬監督の下、アベレージ打者として大覚醒し、首位打者、最高出塁率、最多安打の各タイトルを獲得。“世界のイチロー”への第1歩を踏み出したのは、ご存じのとおりだ。

 ちなみに1991年のドラフトでは、イチロー以外にも、前出の中村が近鉄、桧山進次郎(東洋大)が阪神、金本知憲(東北福祉大)が広島に指名されており、4位指名の大当たり年だった。

「ドラ4」から多くの名選手が誕生した「広島」

 広島は伝統的に4位からの出世組が多く、金本以外にも水谷実雄(65年)、達川光男(77年)、高橋建(94年)、小林幹英(97年)らを輩出。そして、アキレスけん断裂の大けがを乗り越えて、通算2000安打を達成した前田智徳も1989年の4位だった。

 熊本工の4番打者として春夏3度の甲子園に出場した前田には、8球団のスカウトが接触し、地元・ダイエーも上位指名を約束していた。ところが、ドラフト当日、ダイエーの指名はなく、広島が4位で指名。相思相愛の第1志望に振られた前田はショックのあまり、大泣きに泣いた。広島・村上孝雄スカウトはそんな前田を「オレはお前をちゃんと指名したから、間違いなかろうが」と叱りつけた。

 その村上スカウトは、前田引退直後のベースボールマガジン2014年1月号で「時効だろうから」と、前田が上位指名されなかった真相を明かしている。

 野球部の後輩がラグビー部員に殴られたことを知った前田は「オレが一人で行く」と言って、相手をボコボコにして仇を取った。この話がドラフト前に文書の形で各球団に出回った結果、「あれを獲ったら、入団後に何をされるかわからん」と上位指名を回避されたのだという。

「あんな根性のいい子はいませんけど、ダイエーを含め他球団のスカウトには悪ガキに見えたのかな」(村上スカウト)。北別府学、津田恒美、緒方孝市らを獲得した名スカウトの眼力の確かさが窺える。

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