「三島由紀夫さんは会うたびに礼節を説いてきた」 横尾忠則が考える「礼節」と「霊性」の関係

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「週刊朝日」に連載しておられた、医学博士の帯津良一先生の「ナイス・エイジングのすすめ」のファンということで、先生と同誌で対談する機会がありました。その際に『八十歳からの最高に幸せな生き方』(青萠堂)という著書をいただき、それ以降、貝原益軒の『養生訓』と共に座右の書として愛読しています。本書は養生の書であると同時に、タイトルにあるように生き方の書でもあります。

 この本の中に「いのちの本質は霊性にあり」という項目があります。WHO(世界保健機関)が1998年に健康の定義を新しいものに改定しようと考えた際に、身体性と精神性の他に霊性を加えようとしたそうで、結局、この時は改定に至らなかったのですが、要約すると、人間は身体性、精神性、さらに霊性という三つの要素からなっていると。つまり、「いのちの本質とは霊性である」というわけです。身体性と精神性に霊性を加えるという発想は、時には知識人の中でも受け入れ難い概念として否定する人もいるように思います。

「霊性」という言葉を初めて耳にしたのは1964年に三島由紀夫さんに初めてお逢いして間もなくの頃だったと思います。この聞き慣れない言葉は次のようなお話の中で出てきたのです。三島さんが僕に個人的に語られたのですが、「君の作品には礼節がない。実に無礼だ。しかし、芸術作品には礼節がなくてもいい。だけど、人間に不可欠なものとして礼節は必要だ。例えば、縦糸が創造だとすると、横糸が礼節だ。この2本の糸が交じわったところに霊性が宿る」と。

 当時、僕はこの意味がよく理解できませんでした。礼節によく似た言葉に礼儀というのがあるので、自分なりに「エチケット」ぐらいに解していました。しかし、創造とエチケットが交じわる位では霊性は生じないだろう。何かそこにはスピリチュアルなものがあるに違いない。そう考えて、一体霊性とは何者なのか、という探究が始まったのです。アメリカ西海岸のヒッピーの間でスピリチュアリズムというのが60~70年代に流行りました。だけど三島さんはそんなヒッピー思想のオカルチズムに似たスピリチュアリズムよりも、もっと深淵な精神というか、正に覚醒した霊性を指しているに違いなかったのです。

 冒頭に挙げた帯津先生の指摘されている、人間を形成する重要なファクターである身体性と精神性と同格に(あるいはそれ以上に)位置づけられている霊性は僕にとっては長い間、謎の存在だったのです。そして、この霊性というものがあるのなら、何がなんでも身につけたいとさえ思うようになりました。その後、禅の世界に飛び込んだりするのですが、そんな修行のような技術によって得られるものでもなさそうだとわかります。

 何かの機会に三島さんが語った言葉だったと思いますが、現世で評価される作品ではなく、天で評価される作品を描くべきだ、とおっしゃったような気がします。自分を取り巻くこの現世での評価はチョロイというような意味に聞こえたと思います。現世で一番エライのは知性だと思っているが、そんな知性を超えた神の領域に属するような何か、それが霊性なんだろうか。とこんなことを日々、考えている時、現代仏教学の頂点をなす鈴木大拙の存在を知りました。

 切っ掛けは禅でしたが、大拙の霊性の覚醒に触れた言葉の中で「霊性は知識人から始まらないで、無智愚鈍なるものの魂から」と、知性の否定をしており、むしろ無学の人間の方が霊性への途が開かれていると説いています。知識人は、その知性がさまたげになって、霊性がなかなか目覚めない。霊性は知性を超えたもので、思惟や認識になり得ない、むしろ知性の方から霊性に至る途は断絶しているというのです。

 そして大拙は、霊性の自覚は理性的な判断をする分別を否定することによってのみ可能だというのです。また、日常生活は常に、霊性の上に営まれているもので、ここで三島さんの言う、日常生活における礼節の意味が見えてきます。この日常生活での礼節なくして、霊性は覚醒しないと言った三島さんの言葉がやっと僕の中で意味を成し始めるのです。

 ここで僕がしばしば例える黒住宗忠神の「アホになる修行」が不思議と一致するような気がします。寒山拾得もしかりです。霊性は、三万冊を読破したというような知の巨人には絶対宿ることはないのです。知性はこの世の価値観の中では最もエライということになっていますが、本来の知性は、実は霊性にあるというわけです。どうも僕は子供の頃から、知性というものから運命的にブロックされていたように思います。むしろ知性を避けてきたように思うのです。

 三島さんはその後も耳がタコになるほど、僕の顔を見るたびに礼節を説き続けました。そして霊性の宿る絵画作品へことある度に僕を導こうとしてくれていたことが、今になって、やっとわかったというわけです。話が少し難しくなったかと思いますが、「私達の肉体の中にすでに宿されている魂のような存在で、生まれる前から存在し、からだが崩壊したのちも存在する。それが霊性」と帯津先生の書の中でアンドルー・ワイル博士が語っています。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2023年11月9日号掲載

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