「涙を流す昭恵夫人を見つめて…」 櫻井よしこが明かす安倍元総理の知られざる素顔

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 志半ばで斃(たお)れた元宰相は、「日本を取り戻す」という信念の下、国内外のさまざまな局面で“闘う政治”を実践してきた。その原動力はいったい何だったのか。公私ともに親交の深かったジャーナリスト・櫻井よしこ氏による人間「安倍晋三」の決定的評伝をお届けする。

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 安倍晋三総理は祖父、岸信介氏のことを「うちのじいさん」と呼んでいた。日米安全保障条約改定がなされた1960年、安保改定反対のデモ隊が繰り出す中、岸信介は命懸けで改定を成し遂げた。

 当時、幼かった安倍氏が岸氏をウマに見立ててまたがり、「アンポハンターイ」と声を上げたところ、「アンポサンセーイと言いなさい」と「じいさん」にたしなめられた逸話は広く知られているところだ。

 安倍氏は岸氏を慕い、尊敬していたが、岸氏の著作『我が青春』(廣済堂)には祖父と孫をつなぐ決して切れない幾本もの糸が通っている。上の書は戦犯容疑を受けて巣鴨に拘留されていた岸氏が45年暮れから約3年半にわたって書きつづったものだ。獄中生活の無聊(ぶりょう)を癒やすべく、幼い時をすごした郷里山口のこと、親類縁者、恩師や友人知人についてのほのぼのとした記述には、当時の日本人の生き方、親族一同の助け合い、自己犠牲、他者を支える精神などが表れている。安倍総理がいつも語っていた日本の美徳を生きている人々だ。

祖父と重なる子どもへの優しさ

 書の随所から、強面に見られがちな岸氏が実はまめで、子供好きだったことが伝わってくる。小学校4年生だった岸は山口県の西田布施の小学校から岡山県下の内山下小学校に転校した。名門岡山中学に入学するためだ。そこで岸の世話をしたのが岡山医専、後の岡山医大の教授を務めた叔父の佐藤松介だった。松介叔父のところに寛子(後の佐藤栄作の妻)と正子、2人の女児が続いて生まれ、岸は喜んだ。

「子供好きの私は時々寛子をおんぶしたりして遊んだ」と岸は書いている。小学生で、あまり体の頑丈でない岸少年が、幼な児をおんぶして遊ぶ姿が目に浮かんでくる。

 松介叔父は「男の子に子供など背負わすなよ」と岸の叔母に小言を言うのだが、岸は一向に気にしていない。

 安倍氏の言う「強面のうちのじいさん」がそのイメージとは反対に子供好きだったように、安倍氏も3.11の被災者や各地の施設を訪ね、行く先々で子供たちと実にうれしそうに触れ合っている。その姿は祖父の小さき者への優しさと重なるだけでなく、安倍氏にもし子供がいたら、きっといい父親になっていただろうと思わせるものだった。

 岸を世話した松介叔父、そして岸、安倍をつなぐ通奏低音は、日本を担う未来世代への期待であろう。

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