【追悼・長嶋茂雄さん1】「陛下の前で試合をしたかった」と高熱で強行出場…“もう1つの展覧試合”をめぐる「ミスター伝説」

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もうひとつの天覧試合

 6月3日、巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄氏が肺炎のため死去した。89歳だった。生涯、野球への情熱を絶やさなかった長嶋氏は、2013年5月5日に松井秀喜氏とともに国民栄誉賞を受賞。“燃える男”と呼ばれた現役時代には、いかにもミスターらしいビックリ仰天のエピソードや思わずくすりとしてしまう“いい話”が数多い。中でも有名なのが、プロ野球史上初の天覧試合となった1959年6月25日の阪神戦での劇的なサヨナラ本塁打だが、実は「もう1つの展覧試合」でも伝説を残していた。【久保田龍雄/ライター】

(全3回の第1回)

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※2023年5月3日に配信した記事を再編集してお届けします。年齢・肩書は掲載当時のものです。

 現役時代の長嶋茂雄といえば、プロ野球史上初の天覧試合となった1959年6月25日の阪神戦での劇的なサヨナラ本塁打が有名だが、実は、もうひとつの天覧試合、66年11月6日の日米野球、第11戦(巨人対ドジャース戦)でも、風邪を押して出場し、初回に貴重な先制本塁打を放っている。

 風邪をひいたのは、11月1日に富山で行われた第8戦(巨人対ドジャース)の直後だった。「週刊ベースボール」(66年11月21日号)によれば、2日早朝に帰宅した長嶋は体調不良を訴え、すでに鼻風邪をひいていたが、「大事にして寝ていなさい」という亜希子夫人の制止を振り切って私用で外出したことから、さらに悪化、38度の高熱で床に臥したままになり、3日の第9戦、5日の第10戦(いずれも全日本対ドジャース)を欠場した。

「陛下の前で試合をしたかった」

 だが、食事もほとんどのどを通らない状態にもかかわらず、天覧試合に特別な思いを抱く長嶋は「どんなコンディションであっても、(6日の)試合だけは出たかった。倒れてもいいと思った。死んでもいいと思った。陛下の前で試合をしたかった」と体調不良を押して、全日本の3番として出場する。

 そして、1回2死、長嶋は19歳の速球投手・フォスターの初球を左越えに先制ソロ。とても前日まで風邪で寝ていたとは思えない豪快弾だった。

 1対1の4回の2打席目も、フォスターが初球に危険球を投じてきても、冷静さを失わずに三遊間を抜き、一挙3得点につなげる。さらに、7回にもこの日3本目の安打を左前に放ち、10点目のホームを踏んだ。

 11対3の快勝後、長嶋は「今日は一生懸命だった。両陛下がご覧になっている前で、こんなに打てたのは本当にラッキーだ。7年前を思い出したね。(本塁打で)ベースを回るときはうれしかった。幸せだよ」と最高の笑顔を見せた。

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