「両親は創価学会に数千万円寄付した」 宗教2世・長井秀和が告発「100万円の壺なんて安すぎて学会員にはピンとこない」【スクープその後】

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自宅は異様な“信仰道場”

 私は両親の代からの学会員でしたが、その育ちは巷間言われている宗教2世よりも強烈だと思います。何せ自宅が“信仰道場”と化していて、日々、学会員が集まっていたんですから。

 自宅があった武蔵村山市には当時、学会の会館がなかった。だから、何かあると“じゃあ長井邸で”となるんです。実際は、何もなくても毎日誰かが来て、南無妙法蓮華経の題目を大声で唱える「勤行(ごんぎょう)」が行われていましたけれどね。

 当時、3階建ての家に住んでいたのですが、20畳くらいある3階部分は壁がぶち抜かれ、2階部分も半分くらいは学会のために使われていた。携帯電話どころかポケベルもない時代ですから、それぞれの私用連絡や、選挙・折伏の電話作戦のために、3階にはピンク電話まで設置されていました。

楽屋代わりに使われていた宗教ハウス

 当時は学会が埼玉・所沢の西武球場なんかを借り切って文化祭を開催していたこともありましたが、その時もすごかったですよ。文化祭では、北朝鮮が将軍様をマンセーするときのようなマスゲームなどが行われるのですが、西武球場から近かった私の家が楽屋代わりに使われるんです。その日はもう、全身タイツの女性やヒラヒラ衣装を身にまとった若者が次から次へと自宅に出入りして。子供心には楽しかったですが、夜遅くまで大音量の題目とともに得体のしれない連中が出入りする宗教ハウスですから、近所の人からするとかなり不気味だったでしょうね。

 うちがそんなふうに使われていたのは、父が聖教新聞の販売店の店主をしていたことも関係しています。聖教新聞は折り込みチラシも夕刊もありませんから、朝刊の配達が終われば基本的に仕事はない。ただ、販売店には学会および公明党の活動に殉じるという裏テーマがあった。うちの父も後年、公明党の市議を務めていたくらいで、学会のために生涯を捧げることを厭わないタイプの人間でした。

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