「高橋治之元理事」逮捕で思い出す「シュランツ事件」 50年前の「札幌五輪」が商業化の“転換点”だった

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年収2000万円が問題

 この時のIOC会長は米国人のアベリー・ブランデージ。84歳の頑固者は徹底したアマチュアリズムで知られ、スポーツに金が介入することを極度に嫌ったため「ミスター・アマチュア」と呼ばれていた。

 アルペンスキー界では札幌五輪の少し前からワールドカップが始まっており、各国を転戦するワールドカップに参加するには金がかかった。そこで、スキーメーカーなどのスポンサーが選手に付くようになる。財政支援した選手が活躍すれば、スキー用具などが売れる。持ちつ持たれつの関係だ。

 今なら当たり前の構図だが、ブランデージはそうした「カネを稼ぐ半プロ化した選手」が「神聖なオリンピック」に参加することを嫌悪した。一足先に「商業化」を導入した国際スキー連盟(FIS)とも激しく対立する中で札幌五輪が行われた。

 当時、シュランツは「シュランツはクナイスルで勝つ」などというキャッチコピーで、スキーメーカー「クナイスル」をPRしていた。その他、様々なCMに出演し、年収は2000万円近くあったとされる。

 厳格なアマチュアリズムを求めるブランデージは、そんな彼を苦々しい思いで見ていた。そして、五輪憲章違反に抵触したとして、開催直前に開いたIOC総会決議で、28対14でシュランツの「失格」を決めたのだ。

 シュランツの札幌五輪追放で参加選手たちは警戒した。女子の滑降競技では、メダルを獲得した選手3人が、メーカー名などが写らないようにスキー板を持たずに表彰台に立った。そうした中でも、金メダルのマリー=テレース・ナディヒ(スイス)と銀メダルのアンネマリー・モザー=プレル(オーストリア)の熱戦は今でも覚えている。

「商業五輪」へ転換

 札幌五輪の4年後、1976年に夏季五輪を主催したカナダのモントリオール市は、五輪開催によって大きな赤字に陥った。

 その翌年、1977年の日本。当時、大手広告会社「電通」の若手社員だった高橋容疑者は、「サッカーの王様」ことブラジルのペレを招聘して引退興行を催す。7万人収容の国立競技場を満員にする大成功だった。この興行が大きな収益を上げたことにより「スポーツはカネになる」ことが証明され、商業スポーツは「電通商法」で急発展してゆくのだ。

 札幌で大きな禍根を残したオリンピック。IOC会長がブランデージからマイケル・モリス・キラニンに代わって、1974年には五輪参加資格規定から「アマチュア」が削除された。

 その後、オリンピックのアマチュアリズムが一変したのが1984年のロサンゼルス夏季五輪である。その頃、IOC会長はスペイン人のフアン・アントニオ・サマランチへ交代し、アマチュアリズムは吹っ飛んだ。初めての「民営化」となったロス五輪では、大会委員長のピーター・ユベロスの辣腕で500億円の利益を生み出した。

 それ以後、五輪の商業化驀進は周知のとおり。この間、各競技も「スポンサーのためなら何でもあり」の様相を呈した。1990年代、日本バレーボール協会は、監督が取りたいかどうかにかかわらず、相手チームが8点を取れば自動的にタイムとなるルールを導入した。試合を中継するTV局が、その間にCMを流すためだった。同じ頃、米国やカナダでは、アイスホッケーやバスケットボールのプロ選手の五輪参加の是非が物議をかもしたが、今や昔の話。

「アマとプロの垣根」が取っ払われ、五輪は「カネになる人気競技」が優先される。他方、伝統があっても人気のない地味な競技は、滅茶苦茶にされかけている。最近でも、伝統競技「近代五種」から馬術を外し、日本のバラエティ番組の障害物レース「SASUKE」に替えるという“とんでも案”まで出ている。

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