史上最年少15歳4ヵ月で“甲子園優勝投手”に…大ブームを巻き起こした「1年生投手列伝」

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“大輔フィーバー”

 坂本から3年後の80年、同じ1年生エースとして準優勝投手になり、“大輔フィーバー”を巻き起こしたのが、早稲田実・荒木大輔(元ヤクルトなど)である。

 調布リトル時代に極東大会、世界大会で優勝という輝かしい実績を持つ荒木も早実入学直後は、3番手の控え投手だった。

 ところが、夏の大会直前に2年生のエースが練習中に足を負傷。2番手の3年生も病み上がりとあって、速球の威力を買われ、急きょ荒木が代役に指名された。

 同年の東東京は、センバツ準Vの帝京が本命、センバツ出場の二松学舎付が対抗。早実は3番手とみられていたが、荒木は準決勝の帝京戦で伊東昭光(元ヤクルト)に投げ勝つなど、1戦ごとに急成長。決勝でも打線の援護を得て二松学舎付を10対4で下し、チームを2年ぶりの甲子園に導いた。

 さらに、甲子園でも、初戦から44回2/3連続無失点を記録し、準優勝投手に。女性ファンを熱狂させ、社会現象にもなった大輔フィーバーは、5季連続出場をはたした最後の夏まで続いた。

 チームで3番目の投手が、運命の糸に手繰り寄せられるようにして、快進撃の主役になるサクセスストーリーは、荒木の人生を象徴するような出来事でもあった。

 実は、後に松坂大輔の命名の由来にもなった「大輔」も、当初は次兄につけられるはずだったが、誕生直後の次兄が体格に恵まれていなかったことから、健康に育つように「健二」と命名され、“大きな赤ちゃん”だった三男に「大輔」が回ってきたという。

 そんな生誕時のエピソードも含めて、荒木は幸運が回りまわって舞い降りてくる星の下に生まれたと思わざるを得ない。

球拾いから日本一のエースに

 戦後の学制改革以降、史上最年少の15歳4ヵ月で優勝投手になったのが、PL学園・桑田真澄(元巨人など)である。

 83年の大阪大会で、桑田はベンチ入り17人中最後の背番号17を貰ったが、直近の練習試合で結果を出していなかったため、名前が呼ばれた瞬間、周囲からどよめきが起きたという。

 そして、4回戦の吹田戦、投げる投手がいなくなり、バット引きなどの雑用をやっていた桑田が先発に指名されると、上級生たちは「これで夏は終わったな」と冷たい視線を投げかけてきた。

 ところが、この試合で桑田は三塁も踏ませず2安打完封勝ち。その後も桑田は決勝戦を含む4試合に先発、リリーフで登板し、5年ぶりの夏の甲子園出場に貢献する。

 一体何があったのか?

 吹田戦で桑田先発を中村順司監督に進言したのは、かつて報徳学園や神戸製鋼の監督を務めた清水一夫コーチだった。

 球拾いをしていた桑田の外野からの返球が独特の回転をするのを見て、素質に気づいた清水コーチは「この投手はオレが預かる」とマンツーマンで特訓を課し、「お前は直球だけを投げていればいい」とひたすら制球力に磨きをかけさせた。

 大阪大会の直前にカーブを教えてくれたが、全然曲がらなかった。だが、清水コーチは「甲子園に出たら曲がるからな」と言い聞かせた。

 その言葉どおり、甲子園でカーブは大きく曲がるようになり、“やまびこ打線”の池田をはじめ強豪チームをきりきり舞いさせる。そして、決勝でも横浜商を7回途中まで無失点に抑え、見事優勝投手になった。

 一人の名伯楽が球拾いを日本一の投手に成長させる。まさに運命的な出会いだった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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