高市早苗氏の“憧れの人”、サッチャーが蔑まれながら成し遂げた改革

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   日本初の女性首相を目指し、自民党総裁選に出馬した高市早苗・前総務大臣(60歳)。同氏の公式ウェブサイトにアクセスすると、まず「憧れの人はサッチャー英元首相」という言葉が目に飛び込む。

 マーガレット・サッチャーは、1975年に英国保守党初の女性党首、79年に53歳で同国史上初の女性首相となり、11年間の長期政権を率いた政治家だ。内政では「サッチャリズム」と呼ばれる新自由主義的な改革で英国経済を再生し、外政では、ソ連との冷戦に勝利し「鉄の女」の異名をとった。

   一方で、その強硬な政治姿勢から敵も多く、左派からは「富裕層を優遇し、格差社会を招いた張本人」など辛辣な批判も浴びてきた。資本主義の行き詰まりをめぐるこうした議論の出発点に、常にサッチャリズムは参照される。サッチャーは、決して「過去の政治家」にならないのだ。

   サッチャーは自らを「確信の政治家(conviction politician)」と評していた。指導者として明確な信念を持つのは当然のようだが、当時の保守党では国事の運営に熟達することが政治家の本分であり、思想信条への固執はむしろ蔑まれるべきことだったという。

   外交官として国内外多くの政治家と交流してきた冨田浩司駐米大使は、山本七平賞を受賞した著書『マーガレット・サッチャー:政治を変えた「鉄の女」』の中で、「サッチャーが自らの信念を施策の隅々まで貫徹させる意志と行動力を備えていたことで、その結果生まれた一貫性は彼女が示す政治選択を極めて明確なものとした」と記している。まさに「鉄」たる所以である。

   現時点で、政策の面から高市氏とサッチャーを二重写しにするのはまだ早い。ただし、政治、経済あらゆる面で閉塞状況にあった1970年代後半の英国で、改革者であろうとするリーダーに求められた意志と資質は、おそらく現代の日本にも共通する。

   以下、『マーガレット・サッチャー:政治を変えた「鉄の女」』より、一部を抜粋・再編集してお届けする。

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好きになれない「偉大な政治家」

   近代以降のイギリスの歴史を振り返る際、筆者から見て真に偉大な政治指導者として指を屈するのは、グラッドストン、チャーチル、サッチャーの3人である。しかも1982年、筆者が外交官として最初に赴任したのはイギリスで、4年間の在勤期間を通じてサッチャー政権はまさに隆盛の最中にあった。フォークランド戦争、炭鉱ストライキ、ブライトンでの爆弾テロ、シティにおける「ビックバン」改革など、当時の出来事を思い出すたびに感じることは、それらの記憶の一つ一つがサッチャーという政治家の圧倒的な存在感に彩られていることである。当時の政治において彼女が発するエネルギーはそれほど強烈であった。

   にもかかわらず、サッチャーについて書くことには大きな抵抗があった。その理由は単純で、彼女の政治家としての業績は認めざるを得ないとしても、人間的にはどうしても好きになれなかったためである。前著(『危機の指導者 チャーチル』)で取り上げたチャーチルについては、読者に紹介したい事柄が無尽蔵にあり、また、そうした事柄を書くことに大きな喜びを感じていた。チャーチルに対するような人間的共感を持てないサッチャーについて書くことは、大変な難行のように思えたのだ。

   筆者がこうした抵抗感を克服し、サッチャーについて書いてみようと思うに至ったのは、ある本の一節を目にしたためである。

「良しにつけ、悪しきにつけ、21世紀のイギリスは彼女の記念碑である。」

   イギリスの政治評論家デヴィッド・マルカンドは第一次大戦後の英国政治を分析した著作の中でこう指摘した。

   マルカンドは労働党と社会民主党での活動歴を有し、政治的立ち位置は中道左派に属する。したがって、サッチャーの業績に対する彼の評価は基本的には辛口であり、この点は引用における「良しにつけ、悪しきにつけ」という物言いに見えている。実際のところ、英国人にとってサッチャーは中立的な態度で臨むことが難しい政治家である。しかし、彼女がイギリスの政治社会にもたらした変革を考えると、彼女ほど語られるべき指導者はいないのも事実なのだ。

   マルカンドの言葉が示唆するのは、サッチャー前とサッチャー後のイギリス社会の変化の大きさである。それでは、サッチャーをそうした変革へと駆り立てた、当時のイギリスが直面していた課題とはどのようなものであったのだろうか。

独仏に抜き去られた英国の苦境

   1979年にサッチャーが政権に就いた時、イギリスは政治、経済、社会のあらゆる側面で行き詰まりを示していた。

   国際的に見ると、当時は「ブレトンウッズ体制」と呼ばれた戦後の経済システムの一大転換期で、先進経済は軒並みインフレーションと失業が同時に昂進するスタグフレーションに悩まされていた。イギリスもその例外ではなく、政府は日々深刻化する経済情勢への対応に追われていたが、同時に英国経済には積年の構造的課題がのしかかっていた。

   第二次大戦後、イギリスは国民健康保険制度(NHS)を柱とする福祉国家の建設に取り組むとともに、完全雇用を目的とするケインズ主義的な財政・経済政策を推進する。こうした政策を支えたのは、国民福祉の増進のため国家による介入を積極的に支持する政治的なコンセンサスであり、保守、労働の二大政党が政権交代を繰り返す中でもこのコンセンサスの核心的部分は堅持されていた。

   しかしながら、サッチャー政権が発足するまでに、こうしたケインズ主義的な経済モデルの有効性には強い疑問が投げかけられるようになる。その理由の一つは、イギリス経済の長期的な低落で、1950年にはイギリスを100とした場合の独(西独)、仏の1人当たり実質GDPはそれぞれ61.7、74.7だったのに対し、1979年には115.9、111.2と、立場が完全に逆転するに至っていた。

死者の埋葬も出来なかったサッチャー政権誕生前夜

   国家による国民経済への介入の主要な手段の一つは、労働党政権の下で積極的に推進された国有化政策であった。この政策の下で電気、ガス、水道、通信、鉄道といった公共サービスはもとより、鉄鋼、造船、自動車、航空機、エネルギーといった主要産業、果ては旅行代理店(トマス・クック)までが国営企業のリストに加えられる。こうした政策は戦後の一時期、物資が欠乏しがちな時期には資源の効率的な活用を可能とする一定の合理性を持っていたが、イギリス経済が復興を遂げた後は国家による企業経営の非効率性が意識されるようになっていた。

   特に、高級車で有名なロールス・ロイス社のケースのように、政府が雇用重視の観点から経営不振に陥った企業を救済する慣行が横行するようになると、産業構造の調整は停滞し、成長を加速するための努力にも水を差す結果となった。さらに、金融、電気通信と言った分野で急速な技術革新が予感される中で、国家が市場の力を借りずに必要な投資を行っていくことには大きな困難が伴った。

   また、ケインズ主義的な戦後コンセンサスの一つの前提条件は円満な労使関係にあったが、1970年代に経済環境が悪化する中で、労働組合の活動は過激化し、社会の安定そのものを脅かすような状況が生まれる。

   今日、日本においては労働争議による労働日数の損失は年間1万5000日前後であり、イギリスでも現在では17万日程度に留まる(2015年)。しかしながら、炭鉱ストによってヒース政権が週3日の操業短縮に追い込まれた1972年には、労働損失日数は2400万日にという途方もない数字を記録し、労働争議の嵐が吹き荒れた1979年には3000万日の大台目前まで達していた。

   実際、1979年の初頭は「不満の冬(Winter of Discontent)」として記憶され、サッチャー政権発足の大きな要因となったことから、政治的にも重要な節目となっている。この時期、多くの労働組合がゼネストに近い形で連携した結果、イギリス社会は大きな混乱に陥る。運輸労組による戦闘的なピケ活動で陸上輸送が全国的に寸断され、イングランド東部の港町ハルなどは第二次世界大戦の籠城戦の舞台になぞらえて「スターリングラード」と呼ばれる惨状に直面した。また、ロンドン中心部の広場は未回収のごみで埋め尽くされ、リバプールでは公務員ストライキのために死者の埋葬も出来なくなる。

「サッチャリズム」とは何か

   こうした状況を前に、サッチャーが示した処方箋は一般に「サプライ・サイド」の経済対策として理解されているが、こうした解釈は彼女の試みたことのほんの一部しか捉えていない。

   端的に言えば、サッチャーが目指したことは、戦後コンセンサスの下で形成された国家と個人の間の境界線を引き直し、個人の自由を再び国民の営みの中核に据え直すことであった。彼女はそのことを、かつて聖地エルサレムを奪還するため十字軍が示したのと同様の宗教的確信をもって追求し続けた。そして、個人の自由へのコミットメントは、彼女を冷戦の勝利に向けた闘いにも駆り立て、戦後外交史に大きな足跡を残すことを可能とした。

   政治指導者としてのサッチャーの凄さは、個人の自由を追求するイデオローグとしての側面と、卓越した行政手腕を持つ実務家としての側面を兼ね備えていたことであり、後者の能力はフォーランド戦争の指導や数々の外交交渉において遺憾なく発揮された。しかしながら、彼女が歴史に名を刻むのは、疑いなく政治の変革者としてである。

   政治は通常の場合、資源配分の技術である。しかし、時として政治は単なる技術に留まらず、資源配分のあり方そのものを変える必要性に直面する。その時、指導者は国家と個人の関係という核心的な問題に正面から立ち向かわなければならない。

   サッチャーは、自らを「確信の政治家(conviction politician)」と評して憚らなかったが、イギリスの政治においてこのレッテルは常に肯定的な評価を意味するものとは限らない。特に、当時の保守党では、いわゆる「ステートクラフト(statecraft)」、すなわち国事の運営に熟達することこそが政治の本質であり、特定の政治信条に固執することを蔑む傾向があった。政治の目的は自明であり、方法論こそが大事だという考え方である。

   サッチャーが権力の階段を昇り詰める過程で、時の政治指導層から強い違和感をもって迎えられた理由は、単に彼女が女性だったからではなく、政治の目的そのものを問い直す姿勢が未熟であるばかりか、既存の政治秩序を破壊する危険性をはらむものとして映ったからである。

   しかし前述のとおり、サッチャーが政権を獲得した時、イギリスは政治、社会、経済のあらゆる側面で閉塞状況に直面していた。そうした中で、彼女が政治の目的を問い直したことは自然の流れであったと言える。重要なことは、サッチャーが自らの信念を施策の隅々まで貫徹させる意志と行動力を備えていたことで、その結果生まれた一貫性は彼女が示す政治選択を極めて明確なものとした。

   サッチャー以降、政治において信念を語ることはタブーではなくなり、むしろ一つのファッションとしてイギリス以外の民主国家にも伝搬して行った。しかし、政治信念をクレディブルな政治選択に昇華させる能力において、彼女を凌駕する政治指導者を筆者は知らない。

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冨田浩司(とみた・こうじ)

1957年、兵庫県生まれ。東京大学法学部卒。1981年に外務省に入省し、在英国日本大使館公使、在米国日本大使館次席公使、北米局長、在イスラエル日本大使、在韓国日本大使などを経て、2020年から在米国日本大使に就任。英国には、研修留学(オックスフォード大学)と2回の大使館勤務で、計7年間滞在。文筆家としても知られ、著書に『危機の指導者 チャーチル』、『マーガレット・サッチャー:政治を変えた「鉄の女」』(2019年山本七平賞受賞)がある。

    

フォーサイト編集部

Foresight 2021年9月24日掲載

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