中日の元スター選手も参加 50年前に海外でプレーした「東京ドラゴンズ」の悲惨な末路

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 1995年、野茂英雄がドジャーズに入団し、トルネード投法で全米を席巻したことを機に日本人選手のメジャー挑戦が本格的に始まった。イチロー、松井秀喜、黒田博樹、ダルビッシュ有、田中将大らの活躍で日米の差が急速に縮まったことは間違いないだろう。

 しかし、日本人選手が海外でプレーすることなど皆無に等しかった、野茂から30年近くも前の69年、大きな希望を胸に海を渡った選手たちがいたことを今覚えている人はいるだろうか。彼らはアメリカを中心に組織された新たなプロ野球リーグ「グローバルリーグ」に参加するため、日本国内で結成された「東京ドラゴンズ」の選手たちだった。

 グローバルリーグは66年、不動産業者のウォルター・ディルベックがアメリカのナショナルリーグ、アメリカンリーグに次ぐ第3のリーグ戦を作ろうと計画したもの。当初はアメリカ(ミルウォーキー、ダラスなど)、日本(東京)、フィリピン(マニラ)、メキシコ(メキシコシティー)、カナダ(トロント)の5カ国で球団結成を目論んでいたが、紆余曲折の末、結果的に69年のスタート時には日本(東京ドラゴンズ)、アメリカ(アラバマ・ワイルドキャッツ¬=後にロサンゼルス、ニュージャージー・タイタンズ=後にニューヨーク)、ドミニカ(ドミニカ・シャークス)、ベネズエラ(ベネズエラ・オイラーズ)、プエルトリコ(プエルトリコ・サンファンズ)の5カ国6チームが参加。計画では、2チームが帯同してベネズエラの首都カラカスを中心にドミニカ、プエルトリコを転戦し、年間138試合を行うというものだった。

 また、試合にはアメリカでは2017年、日本では2018年に採用された「申告敬遠」、アメリカでは1973年、日本では1975年に始まった「指名打者制度」をいち早く取り入れたほか、代走に起用された選手は、何度でも出場できるという独自のルールを作るなど、進取の気性に富んだリーグを目指し、その動向が大いに注目された。

 日本から参加することになった東京ドラゴンズには当初26人の選手が在籍、そのうち17人が元プロ野球選手だった。とはいえ、プロで実績を残した選手はほとんどおらず、その多くが2軍暮らしの選手だった。しかも、日本の球団に在籍中は、同僚の選手とトラブルを起こすなど、首脳陣とそりが合わず干されていた、いってみれば何らかの問題を抱えていた選手ばかりだった。

 例えば、コーチ兼選手として参加した当時28歳の矢ノ浦国満は、60年に東筑高(福岡県)から近鉄に入団、いきなりレギュラーを獲ったほどの逸材だったが、トラブルが原因でチームを追われてサンケイ(現ヤクルト)へ。さらにその後、巨人に移籍するも68年限りで自由契約となっていた。

 選手たちの中で唯一、プロ野球で輝かしい実績を残していたのが監督兼選手の森徹だ。森は早稲田の主砲として神宮を沸かせた後、58年に中日入り、新人王こそ同期の長嶋茂雄(巨人)に奪われたものの1年目から23本塁打73打点をマークする華々しいデビューを飾っている。そして2年目の59年には31本塁打で桑田武(大洋、現DeNA)と並んで本塁打王に輝くとともに87打点で打点王も獲得。リーグを代表するホームランバッターとなった。

 その後、森の野球人生は暗転してしまう。61年になると監督に就任した濃人渉との関係がうまくいかずに翌62年には大洋に移籍。さらに66年、東京(現ロッテ)に移るも、67年、前年から東京の2軍監督を務めていた因縁の濃人がヘッドコーチに昇格、さらにシーズン途中に前監督の休養に伴って代理監督になるという森にとっては不幸な事態が起こり、出場が激減したこともあってやる気を失った森は68年、まだ33歳の若さで現役を引退していた。

 いずれにしても、グローバルリーグに参加した若い選手にとっては、雲の上の存在といってもいい実績の持ち主であり、チーム名を東京ドラゴンズとしたのも中日時代の森の活躍に敬意を表してのことだったらしい。

 69年4月24日、ベネズエラのカラカス球場で行われたグローバルリーグの開幕戦は東京ドラゴンズ対ベネズエラ・オイラーズ戦。優に3Aクラスの実力があるいわれたオイラーズにドラゴンズは6対0で4安打完封負け。初戦を飾ることはできなかったが、2万5000人もの観客が集まり、球場は大いに盛り上がったという。これを見る限りグローバルリーグの成功は間違いないもののように思われた。

 だが、客が入ったのはベネズエラだけで、他のアメリカやプエルトリコの球場は全くの閑古鳥。試合をすればするほど赤字がかさんでいき、次第にリーグの運営に支障をきたすようになってきた。

 5月16日、開幕戦と同じカラカス球場でドラゴンズとロサンゼルス・ワイルドキャッツとの試合が行われた。開幕戦とは打って変わって4000人という寂しい観客の前での試合は延長12回4対4で引き分けに。結局、ドラゴンズにとって11試合目に当たるこの試合が公式戦の最終戦となり、7勝3敗1引き分けという記録が残った。

 そして、その後の東京ドラゴンズの末路は極めて悲惨だ。リーグ開幕前、選手たちに約束されていた報酬は1人月700ドル。当時のレート(1ドル=360円)では25万2000円になる。当時、大卒の初任給が3万円ほどだから、かなりの高給といってもいい。この金額に惹かれて参加を決意した選手も少なくなかっただろう。

 ところが、リーグの財政難から選手の給料はおろかホテルの宿泊代や食事代、旅費などの経費が一切リーグから支払われず、6月以降ドラゴンズの選手たちはホテルに軟禁されるという事態に見舞われる。しかも、リーグの創設者であり会長を務めていたディルベックが雲隠れしてしまい、大きな理想を掲げたリーグはわずか1カ月で空中分解した。

 軟禁状態の続く中、7月になって何とか飛行機代だけは工面したドラゴンズの面々は、宿泊代を踏み倒し、夜逃げの形でホテルを出て空港に向かった。しかし、離陸直前、機内に入ってきた武装した兵士によって帰国を阻止された。

 彼らがベネズエラを無事脱出できたのは、それからさらに1カ月先の8月11日のことだった。

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2021年1月1日掲載

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