香港人の「台湾亡命」を阻む「新・ベルリンの壁」

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 香港から台湾への距離は、およそ700キロ。東京から広島よりもちょっと遠いぐらいである。フライトなら1時間半。毎日数十本の往来便があり、東アジアのヒト・モノ・カネが活発に動いている太いルートだった。

 しかし、香港情勢の悪化と中台関係の緊張、そして香港の民主化運動を支持する台湾の蔡英文政権の姿勢によって、香港・台湾関係はすっかり冷え込んでいる。さらに新型コロナウイルスによる往来の滞りもあって、両地の間には、新冷戦を象徴する目には見えない新たな「ベルリンの壁」が立ちはだかったようにすら見える。

 そのなかで、かつて東西ドイツを隔てたベルリンの壁を超えて越境した東ドイツの人々のように、香港から「密航」というリスクの高い手段によって「壁」を越え、台湾へ渡ろうとする香港の若者たちが続々と現れている。

 結果、漂流して台湾の離島に流れ着いた者たちもいれば、中国の船に拿捕された者たちもいる。いずれも、2019年の香港の抗議運動に参加した末に、何らかの罪状で逮捕・起訴されたり、国家安全維持法(国安法)によって摘発のリスクを抱えたりした若者たちと見られている。

中国海上警察に逮捕

 筆者が8月に刊行した『香港とは何か』(ちくま新書)では、2014年の台湾・ひまわり運動と、香港・雨傘運動によって両地の価値観が接近したことや、2019年の香港デモによって香港人が台湾に逃げ込んでいる実態を紹介しているが、国安法の導入によって一層、台湾が香港人が事実上の亡命先とする「避難港」の役割を負うようになっているようだ。

 香港警察の発表などによると、8月下旬、香港の漁村から闇夜に紛れてモーターボートで出発したものの、台湾の領海にたどり着く前に海上で中国の海上警察に逮捕された者は、16歳から33歳までの男女12人。香港の親中メディアは全員の名前まで掲載して、「独暴分子(独立暴力活動家)」と呼んで非難した。彼らは現在、中国国内で拘束されている。

 その中には、国安法で「外国あるいは外国勢力と結託して国家安全に危害を加えた」との疑いで逮捕された李宇軒氏も含まれていたと見られる。

 李氏は香港でいったん保釈されていたが、パスポートは押収されていた。国安法での逮捕の場合、最悪のケースは無期懲役。李氏らは決死の覚悟で香港を離れようとしたと見られる。

皮肉な歴史の逆転現象

 香港から陸続きで向かうことができる先は中国だけだ。残された逃げ道は海しかない。その状況下で彼らが、順調ならば数日間の航海でたどり着けるうえ、香港人に対して人道的サポートを表明している民進党・蔡政権の台湾を選ぶことは、きわめて自然な流れかもしれない。

 台湾メディアによれば、7月の時点で複数のグループが台湾への逃亡を試みて、台湾の高雄に到着することができたという。

 ただ、香港・中国の両海上警察がすでに逃亡ルートをつぶすために警備艇を多く出し、警戒を強めている。李氏らのグループが拿捕されたのも、そのためと見られる。

 一方、香港から台湾へは、距離的にはやや遠回りになるが、台湾が実効支配する南シナ海の東沙諸島を経由するルートもある。こちらは警察の警戒が比較的及びにくいうえ、東沙諸島に漂着できさえすれば、台湾当局の庇護をうけて台湾本土に送られることが可能になる。

 香港、台湾メディアの報道によると、7月下旬にも5人の香港の活動家が船で台湾へ向かった。しかし、途中で燃料が尽きてしまい、台湾が実効支配する東沙諸島に流れ着いたところ、現地に駐留する台湾の海上保安庁にあたる海巡署に保護された。5人の中には、昨年、立法会ビルに突入した21歳の文家健氏が含まれていたとされる。ただ、最近の海上警備の強化でこのルートの安全も危ういようだ。

 かつて香港は、反体制の台湾人にとっての「避難港」だった。台湾には、戦後、国民党が大陸から逃れてきて独裁政権を敷き、多くの無実の人たちが処刑・投獄される「白色テロ」の嵐が吹き荒れた。その中で、台湾からは、英国統治下にあった香港へ密航・逃亡する人々が相次いだ。

 日本人にも馴染みがある人物で言えば、のちに香港から日本へ移って作家・経済評論家として活躍した邱永漢氏がいる。その香港体験を邱永漢氏は『香港』という小説にして外国人初の直木賞を受賞していた。

 日本で独立運動を立ち上げた言語学者の王育徳氏も、香港経由で日本に脱出した1人である。

 当時の香港は英国の植民地であり、一定の自由と安全は保証され、中国の共産党も台湾の国民党も手出しができない場所だったからだ。

 その避難港であった香港が、21世紀に入って、権威主義を強める中国から最も直接的な圧力を受ける場所の1つとなり、逆にこの20年間、安定した民主主義を育ててきた台湾が香港人の避難先になっているのは歴史の逆転現象であり、皮肉な事態と言うほかない。

当面はロープロファイルな姿勢

 最近、香港人として台湾へ避難した人物の代表格は、習近平国家主席批判の書籍を販売した容疑によって中国国内で逮捕され、香港でその事実を告発して衝撃を与えた林栄基「銅鑼灣書店」店長だ。

 香港での書店経営はもはや不可能とみた林氏は2019年に台湾へ事実上の亡命を決行し、今年4月に台北の中心地に念願の新書店を立ち上げた。店名は同じ銅鑼灣書店で、オープン時には蔡総統もお祝いに駆けつけている。

 台湾政府は、香港人の台湾逃亡について、明確なコメントを避けている。中国・香港政策を担当する大陸委員会は「提供できる情報はない」とだけ述べ、不法入国は違法な行為でリスクが高いことにも言及している。台湾は香港の活動家に対して、人道的な支援体制を立ち上げているが、個別具体例については公開を拒んでいる。

 それは、台湾が香港で指名手配や起訴された人物をかくまっていることが事実として明らかになれば、中国に対して政治介入の口実を与えることにもなりかねないからだ。

 ただ、台湾政府も、密航とはいえ台湾に入ってきてしまった香港人をそのまま送り返す措置は取らずに、当面はロープロファイル(目立たない)姿勢でこの問題に対応していく構えだ。

 2019年の大規模デモの原因にもなった台湾・香港間の容疑者引き渡し条例がない問題も、両政府間でまったく解決されていないうえ、香港における台湾の出先機関の業務が事実上継続困難になるなど、香港・台湾関係はこの1年で大きく悪化したので、台湾から香港への活動家の引き渡しは現実的に考えにくい。

 天安門事件のときには、大陸から香港に逃れてきた多くの民主活動家を、香港経由で欧米諸国に逃亡させる「黄雀(イエローバード)作戦」が展開されたが、現在の香港はすでに中国へ返還され、当時と状況が大きく違ううえ、中国の海上警備能力も格段の進歩を遂げている。

 その中で、香港の活動家はまず身近な台湾に渡り、そこからさらに欧米に移動したいという判断もあると見られており、今後も台湾への香港人の避難の動きは、合法・非合法を問わず、継続的に行われていく可能性が高い。

 民主や自由を求めた香港人の若者たちが故郷を捨てるまでの悲壮な行動に追い込まれている事態に対して、日本人も無関心でいられないことは言うまでもないだろう。

野嶋剛
1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。2016年4月からフリーに。著書に『イラク戦争従軍記』(朝日新聞社)、『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)、『謎の名画・清明上河図』(勉誠出版)、『銀輪の巨人ジャイアント』(東洋経済新報社)、『ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち』(講談社)、『認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾』(明石書店)、『台湾とは何か』(ちくま新書)、『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』(小学館)など。訳書に『チャイニーズ・ライフ』(明石書店)。最新刊は『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』(扶桑社新書)。公式HPは https://nojimatsuyoshi.com。

Foresight 2020年9月7日掲載

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