コロナ禍に屈せぬ南三陸町「震災語り部」ホテル(上)休まぬ「地域のライフライン」

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 新型コロナウイルス禍が再び全国に広がる中、政府の「Go To キャンペーン」は混迷し、夏到来にも有名観光地の宿泊業者の苦境は続く。取材で訪ねたのは、東北・宮城県南三陸町のホテル。毎朝、東日本大震災の被災地の風景を巡る「語り部バス」を出す。これまで38万人を乗せ、その縁を全国に広げ、コロナ禍にも屈せず1日も休むことなく客を迎える。「被災地のホテル」の使命があるという。

「語り部バス」に乗る

 7月18日(土)の午前8時45分、「語り部バス」はいつものように「ホテル観洋」の玄関前を出発、冷たいヤマセ(北東風)の霧雨が包む宮城県南三陸町の被災地の風景へ旅立った。「語り部バス」は1時間の行程で午前10時にも所用1時間半の第2便がある。どちらも毎日休まず運行しており、宿泊客でなくとも予約して乗れる。

 この日、地元紙『河北新報』1面の見出しは、

〈高齢・若者 団体旅行を控えて 政府 Go To 割引、業者任せ〉

 コロナ禍でどん底にある旅行・観光・宿泊業者らへの支援事業「Go To トラベル」の開始を同月22日に控えながら、東京都などの感染者が再び増加に転じていた。政府は急きょ、感染や重症化のリスクが高い層の団体旅行を「控えてほしい」と表明した。年齢や人数の線引きの判断を旅行業者に丸投げし、対象区域からの「東京除外」や、キャンセル料補償を巡る論議に加えての新たな混乱の朝だった。

 渦中の東京から約360キロ離れた被災地の「語り部バス」には、夫婦連れなど十数人の乗客が集った。

 案内役のマイクを握ったのは、地元出身で防災士でもある同ホテル第一営業部次長の伊藤俊さん(45)。2011年3月11日の津波襲来の際は、ホテルの予約業務をしていた。志津川湾に近い町中心部のアパート3階の自宅は津波に呑まれたが、幸いにも外出していた妻と生後10カ月の娘は助かった。家財は流され、冷蔵庫が天井に刺さっていたという。

「あのころの暮らしは(かさ上げされた土の)10メートル下にあった。そして高さ8.7メートルの防潮堤がいまも造られている。あの日すべてをなくし、普通には戻れない現実がここにあります。それを知ってもらい、応援してもらい、だから元気でいられるのです」

 伊藤さんが最初に案内したのは、同町南部の海岸から約100メートル離れた鉄筋コンクリートの戸倉公民館。震災当時は中学校の校舎で、大地震の約30分後、1階が津波に沈んだ。

「ここは避難場所で、人がいっぱいいた。津波が来ちゃいけない場所だったが、11人も亡くなった。『山から津波が来た』と、ここにいた人は言った。地形が複雑で、海とは逆の方向から津波が襲ってきた。1つ1つの場所で(防災の条件が)違うのです」

 公民館前の旧戸倉中の校庭は、伊藤さん一家が暮らした仮設住宅のあった場所でもある。

 戸倉公民館の近くに旧戸倉小学校があった。震災の2日前にも大きな地震があり、戸倉小の児童たちは3階の屋上に避難した。屋上か高台か、新任の校長と教員たちは何度も避難先の話し合いをし、この日の避難の後も、再度の話し合いで「逃げ場のない屋上でなく高台にするべき」との意見が出て、この積み重ねが震災当日の校長の決断に生きたという。

「児童と教員(91人)は高台へ逃げ、さらに(臨機の判断で)高い場所の神社に避難しました。その鳥居まで津波は来たのです。それは偶然じゃなく、昔からの言い伝えの場所がある。寒さの中、(神社で)子どもたちは卒業式のために練習した『旅立ちの日に』という歌を皆で歌って頑張ったのです。大事なことは、子どもたちに伝えてゆきましょう」

宮城でも消えた宿泊予約

 高さ15メートルの津波で死者566名、行方不明者310名に上った南三陸町の中心部、志津川を、震災後に訪ねたのは翌2012年2月と3月。最初は、編集委員をしていた『河北新報』の新人研修に同伴し、同町職員43人が亡くなった町防災対策庁舎の廃墟などを視察した後、泊まったホテル観洋で女将の阿部憲子さん(58)から被災体験を聴いた。以来、8年ぶりの取材だった。

 志津川には漁港とホタテなどの養殖の景色が復活し、特産のたこ料理や「南三陸きらきら丼」(ホテル観洋が発祥)が名物の「南三陸さんさん商店街」(食堂、土産物店、鮮魚店など28店舗)にマスク姿の家族連れの姿があった。が、往時の街の跡は分厚く盛り土されて記憶のよすがもなく、住宅地は高台に再建されて、防災対策庁舎の赤茶色の骨組みが保存された「復興祈念公園」の広大な造成現場と、いまだ続くコンクリート色の防潮堤工事の眺めが見渡す限り広がっている。

 ホテルに着いたのは、冒頭の「語り部バス」に乗る前日の午後。志津川湾にそそり立つ岩盤の上に見える白亜の建物が「ホテル観洋」だ。5階に玄関とフロント・ロビー、10階まで客室があり、湾を一望する浴場群の眼下に青い海面と白波が広がる。

 金曜日とあってか、フロントには意外に大勢の予約の客がいた。ただし、かつての団体客のにぎわいなどではもちろんなかったが、コロナ禍の下で予想された「閑散」の状況からは回復しているように見えた。

 ロビーで会った女将の阿部さんは、

「うちの宿泊客も、4月は前年比で2割、5月は1割でした。始まりは2月。事務所の電話が鳴り始めて、数えることもできないくらいにどんどんキャンセルが続いて、私どものホテルではあっという間に5億円以上の予約がなくなりました。そして、ある時期から電話が全然鳴らなくなり、事務所が静かになった」

 地元の宮城には秋保、鳴子、松島などの有名温泉地、観光地がある。多くのホテル・旅館が、東北各県などの緊急事態宣言が明けた5月半ば以降も休業を余儀なくされた。宮城県ホテル旅館生活衛生同業組合の調査によると、

〈5月末時点の6~8月の予約数は、前年同月の宿泊者数の10%台にとどまっている。6月の予約は前年同月の宿泊者数の16.4%、7月は11.5%、8月は12.7%〉

〈書き入れ時の8月を地区別に見ると(中略)秋保(仙台市)は17.0%など、県内全地区で前年同月の宿泊者数の20%以下の予約数にとどまる。中でも鳴子(大崎市)は4.0%と落ち込んでいる〉(いずれも6月20日付『河北新報』より)

「有名な大どころの旅館が休業するだけで、地域全体が止まったように動きも元気を失う。私たち三陸で業を営む者の多くが震災後は二重ローン、さらにコロナ禍で三重ローンを抱え、それでも、長く立ち止まれば後で立ち上がるのが大変だったり、ネガティブな感じになったりするのを震災で体験した。そこで止まっても固定費は重くかさむ。苦しくても歩みを止められなかった。私自身、『みやぎおかみ会』の会長という役目もありました」(阿部さん)

みやぎおかみ会の奮闘

 東北はもともと、東日本大震災の影響もあってインバウンド(訪日外国人客)の全国に占める割合が2019年も1.5%ほど。それだけに大切にしてきた家族の宿泊や地元の歓送迎会もなくなった危機に、長年「縁」づくりを担ってきた阿部さんらおかみ会が行動した。

 外出もできぬ子どもたちに旅の楽しさを忘れないでもらう「お宿の思い出こども作文絵画コンクール」。約60人の全国の小中学生が、県内の旅館にまつわる思い出を文章や絵にして送ってくれた。プレゼントは宿泊券や入浴券、図書券。

「おかみ会で3月に話し合って企画したが、人の流れが止まってチラシも渡せなくなり、ホテルのブログやフェイスブックで発信した。楽しみが次につながるし、何より、私たちには知恵を出すことしかなかった」

 次の企画は、1万円で1万3000円分の宿泊施設利用券「みやぎお宿エール券」の売り出しだった。購入先のホテル、旅館で宿泊や食事、入浴に今年いっぱい使える。「地元宮城と業界の窮地だから」と自らホテルに企画の事務局を置き、やはり3月中にアイデアをまとめた。3割の負担分の応援を県に求めたが、予算を議会に上げる手続きや要する期間の長さを伝えられ、

「やるのはいま、やれる人だけで立ち上がろうと思った」

 と阿部さんは言う。

 だが作文や絵とは違い、現に苦境にある仲間に負担を強いることはできず、おかみが賛成しても社長が経営判断で首を縦に振らぬことも当然あり、参加できたのはおかみ会加盟36軒のうち17軒。それでも、

「私たちがまず成果を出して、第2弾、第3弾の時に安心して参加してもらえたら」

 と前に進んだ。

「お宿の思い出」同様に手作りだった「みやぎお宿エール券」を、地元メディアも支援を込めて取り上げ、7月1日の利用スタートまで完売した。都道府県をまたぐ移動自粛の解除が6月19日までずれ込んだこともあり、購入した人の9割が県内在住者だった。

「うちのホテルでも9割が県内からの宿泊客。エール券を持参した人が大半で、功を奏したと言えます。県境を超えて誘客するキャンペーンの立ち上げが早かった九州など西の方に比べ、東北は県ごとに慎重で遅れたかもしれない。それは、迎える側の心配が解消できずにいるから。お隣の岩手では、陸前高田など岩手県南と本来同じ地方の気仙沼の人が県境を越えてお昼を食べに行っただけで、県外ナンバーだと苦情を言われたとの話も聞いた。そうした地域の弱い面を、全国一律で考える『中央』の人々は忘れがちになる。まず『地元、地域、県内、東北』と、時期に応じて少しずつ広げていけたら」(阿部さん)

 政府肝いりの「Go To キャンペーン」が立ち往生しているのも、誰の目にも明らかな「観光・経済再興」と「コロナ禍全国拡大」の二律背反だけでなく、「まず地元から」緩やかに広げたい地方の声に、利権を抱えた「中央」の側が耳を貸そうとしない結果にほかならない。

 それだけでなく、地方に対しても「東京」への恐怖感をいたずらに煽り、観光の原点である「交流」の芽まで摘み取ろうとしている。筆者の目には、東京電力福島第1原子力発電所の事故後の「風評」が福島や東北の観光復興を立ち遅れさせた過去のネガのように二重写しに見える。

「東京からおいでになる人たちのことをあれこれと言うのを聞くけれど、私にはできない。本当に心配な状況は危惧するけれど、私たちはどんな時も人をもてなし、お世話するのが仕事。震災からずっと、東京、関東から来られるお客様に被災地がどれだけ応援していただいたか。多くの方が震災を機に三陸を訪れ、縁を結んでくださった。ただ経営の収支や集客だけではない、私たち地域のホテルの役目や生き方を学ばせてもらいました」

震災、ホテルが担った避難所

 こう語った阿部さんと「ホテル観洋」の体験を、筆者は東日本大震災と原発事故の被災地取材記ブログ『余震の中で新聞を作る』(2011年3月14日から158回連載)に記録している(2012年5月26日付)。その時の取材を基に、当時何があったのか、あらためて紹介したい。

 3月11日の津波の当日、ホテルにこもった人は約250人の従業員と宿泊客、それに避難者が約100人以上おり、翌日には住民も加わり600人を超えた。阿部さんは厨房担当者に「まずは1週間、3食ずつの献立を考えて」と伝え、壊滅した町に買い物にも行けぬ状況ゆえ、客と避難者にも協力を呼び掛けた。泣き崩れる女子社員を力づけながら、阿部さんはスタッフに「お客様優先で、おにぎりがあれば、半分にしてでも配りましょう。譲り合いの精神で」と使命感をもっての仕事を訴えたという。

 宿泊客や避難者が必要とする病気の薬を求めて、従業員は町内の避難所にがれきを乗り越えて行った。

 宿泊客は交通の復旧を待って17日までホテルに滞在し無事に帰ったが、避難者には家を流された従業員の家族も加わる一方、水は4カ月も止まった。浴場も断水で使えなかったが、

「町に20トンの大型給水車が支援に来た日があり、4階の浴場の運転機械は無事だったので、その水で風呂を沸かし、近隣の人たちに提供しました。また、民間の給水車の支援もあって、住民の方のお世話ができました」

 と阿部さんは取材で語った。

 誰もが困ったのは洗濯で、春先の冷たい川水で洗わざるを得なかった。ホテルの従業員がコインランドリーのある町まで車で洗濯物を運んだが、2カ月たってネットがつながり、仙台で洗濯ボランティアが活動していることを知って仙台まで往復するようになった。

 5月になると、ホテルは2次避難所として約600人の被災者を受け入れ、さらに医療ボランティアやライフライン工事の関係者ら約400人も宿泊し、夏場の冷房をどうするかが問題になった。ホテルの冷房は、水がないと動かせない設備だったからだ。

 砂漠の国などの支援に使われる海水の淡水化処理システムがあることが分かり、その企業に人を介して応援を頼んだが話は進まなかった。川で洗濯をしている状況が報道されたことで、6月末に淡水化システムがホテルの敷地に設置され、避難者は冷房と館内の水洗トイレ、洗面所がようやく利用できるようになり、大浴場も週2回の入浴に開放された。

「病院もスーパーもなくなった町から、人口流出も始まりました。私たちが2次避難所として名乗りを挙げたのは、『流出に歯止めを掛けたい、今が踏ん張り時だ』と念じたから。とりわけ子どもたちを世話してあげたかった」

「駐車場の縁石を机代わりに勉強している子、居場所がなく避難所の体育館の床で寝そべる子も。津波が来なければ、夢の志望校を目指して頑張っていた子もたくさんいたはず。以前なら、『お前は長男だから』と言われていたのに、守るべき家は流され、このままでは若い人はみんな町を出て行ってしまう。そうなれば、町の未来も復興もない。子どもたちの居場所、勉強の場を考えてあげなくては、と痛切に思いました。ホテルに『寺子屋』を開きたい、と」

いまも続くホテルの子ども塾

 当時の阿部さんは毎日の避難生活のお世話だけでなく、家と勉強の場を失った仮設住宅暮らしの子どもたちの姿に心を痛めながら、その未来への応援にまで思いをはせ、8階の広い客室に無償の学習塾とそろばん教室を開いた。仮設との送迎タクシーを用意し、仙台や東京から大学生のボランティア教師たちを募った。筆者が取材した慶應義塾大4年の男子学生は1回来るごとにホテルに1週間泊まって教え、小中学生の相談にも乗った。

 2012年に取材した子どもたちのその後を阿部さんに尋ねた。

「被災地でも進学の夢を捨てず、先生たちに憧れて大学生になったり、消防士や看護師、警察官など人を助ける仕事を選んだり、たくましく成長しました。同じ部屋で学習支援はいまも続いており、そろばん塾に50人が通っています。暗算9段で全国大会のベスト4になった子もいる」

 海に面した浴場が一部津波で被災した以外、強く高い岩盤に建てられた「ホテル観洋」は震災でびくともせず、

「地域のライフラインの役割を果たせた」

 と阿部さんは振り返る。

「町中心部の8割が被災し、地域全体が暗くなった中で、冷たい板敷きでない畳の避難所を提供し、売店は住民たちの食料品売り場やコンビニ代わりになり、お風呂やお手洗いも利用してもらい、明るいロビーはお母さん方の気分転換の場所にも役立てた。人口も職場も減った町で、若い世代の働く場にもなってきた(社員は220人)。そして、帰省しても実家がなくなった町の縁者や、遠くから復興に関わる仕事に来られた方のお宿になれた」

 こうした震災時の苦闘と想いは、今回のコロナ禍でどう活かされていったのか――。(つづく)

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2020年8月14日掲載

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