日本文化「印鑑」は本当に必要なのか

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 6月19日、内閣府、法務省、経済産業省は連名で、押印の扱いに対して「押印をしなくても、契約の効力に影響は生じない」との正式見解を発表した。

 政府により、新型コロナウイルスの感染拡大防止のための外出自粛要請がなされ、リモートワークが推奨される中、日本経済団体連合会など各経済団体からは政府に対し、

「コロナ感染症対応としての規制・制度の見直し要望」

 が出され、中でも、

「各種行政手続きの押印原則・書面申請の撤廃」

 が求められていた。

 これに対して政府は、

「私法上、契約は当事者の意思の合致により、成立するものであり、 書面の作成及びその書面への押印は、特段の定めがある場合を除き、必要な要件とはされていない」

「特段の定めがある場合を除き、契約に当たり、押印をしなくても、契約の効力に影響は生じない」

 との正式見解を示したのである(「押印についてのQ&A」内の「問1.契約書に押印をしなくても、法律違反にならないか。」より)。

 政府はこの見解の中で、

「テレワーク推進の観点からは、必ずしも本人による押印を得ることにこだわらず、不要な押印を省略したり、『重要な文書だからハンコが必要』と考える場合であっても押印以外の手段で代替したりすることが有意義であると考えられる」

 と述べている。その上で、文書の成立の真正を証明する手段として、「電子署名」や「電子認証サービス」の活用をあげている。

 新型コロナの感染拡大防止のためテレワークを行う上で、「出社しなければならない理由」として、各種の書類に対する「押印作業」があげられており、今回の政府見解は、民間同士の契約などにおいても押印の必要性がなくなると考えられ、大きな反響を呼んでいる。

 では、これによって日本の書面からは「印鑑」が消えてしまうのだろうか――。

「IT担当大臣」が「ハンコ議連会長」

 しかし、そもそも押印(印鑑の印影)を書類に残すというのは日本固有の文化である。

 印鑑は中国から伝来したものの、中国では印鑑が日用品として定着することはなく、書や芸術作品などで使われるものとなっている。欧米でも印鑑が使われた時代はあったものの、すでに印鑑文化は廃れ、サインの署名が文書の成立の真正を証明する手段となっている。

 一方、日本においては印鑑の印影が文書の成立の真正を証明すると理解されているが、そこには誤りもある。

 印鑑には一般的に「認印」(いわゆる三文判など)と「実印」(役所に印影を届け出ている印鑑)があり、実印の信頼度が高いと思われているが、実は、印鑑としての法的効果は“同等”だ。実印の信頼度が高いと考えられているのは、「役所という第三者機関の信頼度が高い」ためでしかない。

 その上、政府見解で示された通り、書面への押印は特段の定めがある場合を除き、もともと必要な要件とはされていない。

 それでも、日本固有の文化として習慣付けられた押印を廃止することに対する抵抗はこれまでも様々な局面であり、しかも大きかった。

 たとえば1997年、自民党行政改革推進本部が各種申請・届出の電子化やペーパーレス化を推進しようとした際には、印鑑の製造業者や販売店などで組織する業界団体「全日本印章業協会」(全印協)などを中心に印章業界が猛反発した。全国で反対の署名運動を展開し、3万5000人の署名を集めて自民党に提出。結果、この計画は頓挫した。

 しかし、2017年末には安倍晋三政権の成長戦略の一環として、

「会社設立の手続きをオンライン化し印鑑を不要にする」

 ことが盛り込まれた。この方針にもとづき、2018年1月16日には、首相官邸が主導する「eガバメント閣僚会議」が「デジタル・ガバメント実行計画」を決定した。

 だが、即座に“反対の狼煙”があがる。

 翌2月には、前出の「全印協」など5団体によって「全国印章業連絡協議会」が発足する。この協議会は印章業界の利益を守るための政治連盟で、その後押しによって「日本の印章制度・文化を守る議員連盟」(通称・ハンコ議連)が立ち上がった。

 この「ハンコ議連」と聞くと、すぐさま「竹本直一IT・科学技術担当大臣」を思い浮かべる方も多いだろう。そう、IT化を推進しなければならない担当大臣が、これに反対するハンコ議連の会長を務めているというブラックユーモアのごとき事態として一挙に有名になった。

印章業界「必死の抵抗」

 一方で、「全印協」など3団体は2018年2月2日、小此木八郎内閣府特命担当大臣(当時)に対し、

(1)行政手続きにおける「本人確認押印の見直し」の再考

(2)法人設立における「印鑑届出義務の廃止」の再考

(3)「一般的な取引におけるデジタル化の推進」の白紙撤回

 以上3項目の要望書を提出した。

 同時に、eガバメント閣僚会議に対しても要望書が出されたのだが、そこにはこの3項目に加え、

(4)デジタル・ガバメント実行計画における印鑑不要の施策について、印章業界関係者を集めた説明会の実施

(5)同計画が実施された場合の印章業界が被る被害に対する国の売上補償

 の2項目も追加で盛り込まれていた。

 この項目(5)を読むと誰もが驚くのではないか。デジタル化の進展によって印鑑が売れなくなったら、その売り上げ減少分を国が補償しろ、という何とも“厚顔無恥”な主張を行ったのだ。

 そして実際その要望に沿い、東京や大阪など全国6都市で説明会が開催され、手彫り印鑑業者などが多い山梨県からは200人以上の出席者があった。

 その後、新たな成長戦略として2018年6月に閣議決定された「未来投資戦略2018」には、当初、行政サービスの100%デジタル化にむけた「デジタルファースト法(仮称)」などの整備が盛り込まれていた。この方針に沿って、法人登記の際の印鑑の義務化をなくすための「商業登記法」改正を2019年中に行い、2020年までに任意化する目標が明記されていた。

 ところが結局、最終的には「電子データ化した印影を会社設立登記に使えるようにする」という折衷案が落とし所となった。印章業界が力業で押し返したわけである。

 だが、こうした印章業界の抵抗も、今回の新型コロナが“吹き飛ばして”しまった。感染拡大防止のためのテレワークの普及が国民全体に「押印に対する疑問符」を突き付け、結果として押印=印鑑の必要性を否定する世論の声が高まり、一気に“印鑑不要論”が形成されてしまった。

 ただし、それでも印章業界の必死の抵抗は続き、前出の「ハンコ議連」はさる6月19日、岸田文雄自民党政調会長に対し、「リモートワークの阻害要因を印章と決めつけずに有益な印章制度を継続し、印鑑届出をオンライン化すること」を要望している。

“無関心さ”と“認識不足”

 こうした「印鑑不要論」形成の激流の中で最も迷走ぶりが顕著だったのは、2019年9月にIT担当大臣として初入閣した、前述の竹本大臣だろう。

 ハンコ議連の会長を務める竹本大臣は就任記者会見で、行政手続きのデジタル化を推進する一方で、印鑑の利用を残す方策も検討するという“どっち付かず”の姿勢を示した。

 その上、コロナ禍にあった4月14日の記者会見では、テレワークが推奨されている中、印鑑を押印するためだけに出社しなければならない国民がいることについて、

「役所との関係ではそういう問題は起きない。所詮は民・民の話」

 と発言し、IT担当相とは思えない“無関心さ”と“認識不足”を露呈した。

 それだけではない。続いて24日の記者会見では、ハンコ議連の会長職について「辞めろと言われれば辞めても構わない」と開き直って発言。さらには、「ハンコ業者は山梨県に多い。議連には山梨の議員が多く加盟しているが、私は(選挙区が)大阪なのであまり関係ない」とも述べ、その“無責任ぶり”まで存分に発揮している。

 では、今後、印鑑は本当に不要になるのだろうか。

 実は、すでに2001年4月1日には「電子署名法」が施行されており、電子署名が法的に認められている。電子署名を現行の印鑑と同等に位置づけるなら、その電子署名を公的な第三者機関である「電子認証局」が認めた「電子証明書」は、従来の「印鑑証明書」の役割を果たすことになる。

 しかしながら、リモートワークの拡大で電子署名の導入は急速に拡大しているものの、それでもまだ、企業間取引で印鑑が不要になったと言えるほどの状況には至っていない。それは、たとえば借地借家法、宅建業法、派遣法等では、書面作成義務が課せられている(すなわち押印が必要)ため、電子化できないという点も大きな阻害要因だ。

 つまり、政府がそれらの法改正を行わなければ電子化が進むことはなく、竹本IT担当大臣の「所詮は民・民の話」との発言がいかに“無知”な発言だったのかおわかりだろう。

 一方で、電子化が急激に拡大すれば、電子契約は書面と違い、収入印紙の必要がないため、政府が2020年度予算で1兆430億円も計上している印紙収入が、大幅に減少する可能性がある。日本もやがて欧州のようにデジタル課税が導入されることになるのかもしれない。

 もちろん、印鑑が不要となれば、印章業に関連した約9000の業者や約1万500店のハンコ屋に大きな打撃が出るのは間違いないだろう。

 だが、時代の変化とともに様々な業種が消えていったように、印章業が衰退するのも時代の要請なのかもしれない。

 それでも、企業とは違い、たとえば宅配業者による商品の配達などでは、押印が品物を受け取ったことの証明や盗難防止の機能を担っており、生活の中に認印文化が浸透している個人では、簡単に印鑑文化が消えることはないのではないか。

 日本固有の文化と言われる印鑑が姿を消すまでには、まだまだ紆余曲折がありそうだ。

鷲尾香一
金融ジャーナリスト。本名は鈴木透。元ロイター通信編集委員。外国為替、債券、短期金融、株式の各市場を担当後、財務省、経済産業省、国土交通省、金融庁、検察庁、日本銀行、東京証券取引所などを担当。マクロ経済政策から企業ニュース、政治問題から社会問題まで様々な分野で取材・執筆活動を行っている。

Foresight 2020年6月30日掲載

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