駅舎の「保存」「復原」ブーム到来 求められる“品格”とは?

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新しい駅舎より古い駅舎

 原宿駅と国立駅は都内1、2を争う木造駅舎だが、両駅舎の扱いは対照的だった。そうした違いが鮮明になった要因はさまざまなだが、保存・復原という面に関しては、国立駅の場合はやはり行政・鉄道会社・地元住民が残そうという強い意志と理念を共有していたことが大きい。

 例えば、東急電鉄は1990年に複々線化のために東横線の一部区間を地下化した。その工事に伴い、東急は田園調布駅の駅舎を解体することを余儀なくされた。

 田園調布は東急電鉄の歴史においても、特別な地ともいえる。それだけに、田園調布駅の駅舎を葬り去ることは東急そのものを否定することにもつながる。

 地元住民も、そして東急も田園調布駅の駅舎解体をよしとしなかった。いったん解体した駅舎の部材を保管し、地下化工事が終わった2000年に復元。当時、まだ“復原”という言葉は一般的ではなかったこともあり、田園調布駅では“復元”が用いられたが、東急・住民・行政が一丸となってプロジェクトの実現にあたった。田園調布駅舎は復元から20年が経過し、今年には20周年記念イベントも実施された。

 駅舎の保存・復原ブームは、東京だけで起きている現象ではない。東京駅の赤レンガ駅舎は建築家・辰野金吾の手によるものだが、大阪府堺市にある南海電気鉄道の浜寺公園駅も辰野が設計している。

 私鉄最古の駅として知られる同駅は、国立駅と同様に高架化によって姿を消す可能性が取り沙汰されていた。しかし、保存を求める声が根強く、駅前広場に移設された。現在、旧駅舎はカフェ・ギャラリーとして保存・活用されている。

 福岡県北九州市の門司港駅は明治期から本州と九州を結ぶ結節点として栄え、昭和期には朝鮮半島や中国大陸とを結ぶ重要拠点だった。そのため、大企業が門司一体に支店を構え大繁栄を遂げた。

 栄華を誇ったかつての面影は薄れつつも、玄関口だった駅舎は今も大事にされている。門司港駅の駅舎は1988年に国の重要文化財に認定され、2019年に約6年の歳月を費やした復原工事が完了。大正レトロのイメージを放つ駅舎へと装いを新たにした。

 こうした数々の駅舎が復原される背景には、住民や利用者の心の奥底に旧駅舎の記憶が深く刻み込まれていることが挙げられる。思い出をフラッシュバックさせる作用が、駅舎にはある。

 また、明治から昭和前半にかけて開業した駅舎の多くは、外観だけではなく意匠にも精巧なこだわりを含んでいる。そうした点も旧時代の駅舎を復原させたいという気持ちを抱かせるのだろう。

 最近の駅舎は機能性や商業性を優先し、無機質に感じるといった意見は多い。そうした傾向から、新しい駅舎より古い駅舎。かつての駅舎を復原するという潮流を生んでいる。

 しかし、新しい駅舎が必ずしも不人気というわけではない。かつて、鉱山の採掘や機械工業で栄えた茨城県日立市の玄関・日立駅は2011年に建て直された。

 新しい日立駅舎は、建築家の妹島和世さんがデザイン監修を担当。駅舎全体がガラス張りの外観も目を引くが、気品を漂わせるデザイン、なによりも日立駅の眼下に広がる太平洋を望むことができるように工夫された構造が利用者の心をつかむ。

 日立駅から眺められる絶景はすぐに話題になり、いまや新・日立駅は新たな観光名所として定着した。

 玄関口という言葉があるように、駅舎は街の入り口でもあり、顔でもある。それだけに、そのデザインには自然と熱がこもる。

 利便性や機能性は言うまでもなく、今後も駅舎にデザインを重要視する機運が高まるだろう。駅舎デザインは単なるオシャレを追求するものではなく、郷土の歴史、立地なども勘案しなければならない。

 そこに求められているのは、一言で表現するなら品格ということになるだろうか。駅舎にも品格が求められる時代が到来している。

小川裕夫/フリーランスライター

週刊新潮WEB取材班編集

2020年5月2日掲載

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