トランプは「アフガニスタン」から撤退できるのか 「平和構築」最前線を考える(15)

国内 政治

  • ブックマーク

Advertisement

 

 現在の「新型コロナウイルス」の世界的広がりの中で、イランが、世界で3番目に多い1万5000人近い感染者数を出している(3月17日現在)。

 そこで戦々恐々としている国の1つが、イランと長い国境線を共有する隣国のアフガニスタンだろう。本来であれば、あらゆる措置が講じられていなければならない状況にあるが、現在のアフガニスタンにはそのような余裕がない。

 平時から、医療制度が貧弱なままであることは言うまでもない。しかも現状の混乱を見ると、効果的な対応をとるのは、さらに難しいだろうと考えざるを得ない。ひとたび感染が広がれば、大変な事態になる。アフガニスタンにさらなる複合的な危機が訪れ、それによって世界的危機もいっそう深まっていったりしないことを祈るのみである。

 2001年のアメリカにおける9・11テロは、世界情勢を一変させた。アメリカによるアフガニスタン侵攻は、当時国土の9割を実効支配していた「タリバン」政権を崩壊させた。

 だが、それにもかかわらず、タリバンはその後も根絶されることがなかった。それどころか、現在では再び勢力を取り戻し、国土の半分を影響下に置いているとも言われる。アフガニスタンでは、その間ずっと戦争が続いてきた。タリバンに加えて、「アル・カイダ」勢力のみならず「イスラム国」(IS)勢力もアフガニスタンに登場し、戦争が続いてきた。

 もっとも2001年以前のアフガニスタンも、戦争続きの国であった。少なくとも1979年のソ連のアフガニスタン侵攻以来、戦争は終わることなく続いている。アメリカがアフガニスタン情勢を複雑化させたのは確かだが、アメリカだけがアフガニスタンの平和の障害であるわけではないことも、歴史を見れば明らかだ。

「対テロ戦争」の帰趨は、アフガニスタンの安定化によって決まるはずだった。もはや近い将来における「対テロ戦争」の劇的な終結を誰も予測していない情勢の中で、アフガニスタンはこれからどうなっていくのか。国際政治の面からも、コロナウイルスの面からも、先が見通せない大きな不安がある。

アメリカとタリバンの合意

 2月29日に、アメリカとアフガニスタンのタリバンとの間で「和平合意」が結ばれた。

 この合意によれば、14カ月以内にアメリカおよびその他の外国軍は、アフガニスタンから撤退する。代わりにタリバンは、いかなる外国のテロリスト勢力とも協力関係を持たず、アメリカ軍などへの攻撃を防ぐことを約束する。その間に暴力は軽減され、アフガン政府に拘束されているタリバン兵士とタリバン側に拘束されている政府軍兵士の交換がなされることになっている。

 この合意は、国連安全保障理事会など各方面で歓迎されてはいる。

 合意締結数日後の3月3日、ドナルド・トランプ米大統領は、タリバン政治部門の指導者と言われるムラー・アブドゥル・ガニ・バラダル氏と、異例の電話会談を行った。大統領選挙を控えたトランプ大統領の、アフガニスタン駐留の米軍撤退への意欲には、並々ならぬものがある。

 だが残念ながら、多くのアフガン人にとって、合意内容は先行きの不安を与えるものだ。果たしてアメリカが撤退した後のアフガニスタンはどうなるのか。タリバンは新たに原理主義の統治体制を導入し、女性を迫害したりするのではないか。

 アメリカの後ろ盾がなくなれば、カブールのアフガン政府がタリバンに軍事的に対抗し続けることは難しい。もちろんタリバンが支配体制を取り戻せば、恐怖政治の復活だ。歴史的な合意は、多くのアフガン人に未来への不安を与えている。

 それは杞憂かもしれない。合意の実現可能性は、決して大きいとは言えないからだ。

 すでにアフガニスタン政府のアシュラフ・ガニ大統領は、タリバンとアフガニスタン政府の間の新たな交渉を経ずして、一方的に捕虜の交換に応じたりすることはない、と明言している。ガニ大統領は1500人を解放するという大統領令を発したが、戦闘に戻らない保証が取れないとして、渋り始めた。タリバン側は、総計5000人の即時解放を求めて反発しており、隔たりは大きい。

アフガン政府の混乱

 もともとタリバンは、カブールの政権をアメリカの傀儡と見なし、真面目な交渉相手だとは見なしていない。タリバンは、自らを「アフガニスタン・イスラム首長国(The Islamic Emirate of Afghanistan)」と呼び続けている。アフガニスタンの正統政府は1996年から一貫して自分たちだと考えており、カブールに存在している政権を、正統なアフガニスタンの政府だとは見なしていないのである。

 カブールにおける政治情勢は、目を覆う状況である。昨年9月に行われた大統領選挙は、治安面の混乱から投票率は20%弱にとどまった。しかも選挙結果が数カ月にわたって公表されないという異常なものであった。

 12月下旬になってようやく「暫定的に」得票率50.64%で現職のガニ大統領が僅差で過半数を獲得したと発表され、同じ結果が2月中旬に確定されたが、選挙の信憑性は、それまでに相当に失墜していた。

 そのため3月9日には、なんとガニと選挙に不正があったと訴えた対立候補のアブドゥラ・アブドゥラの2人ともが、それぞれの大統領就任式を行うという異常事態が発生するに至った。タリバンとの交渉開始以前に、そもそも誰が本当のカブールのアフガニスタン政府の大統領なのかも不確かだ、という有り様なのである。

 前回の2014年の大統領選挙の際も、大きな対立が起こっていた。5年前は、アメリカの調停によって、対立候補のアブドゥラ・アブドゥラのために「行政長官(Chief Executive Officer)」という役職が創設され、危機は回避された。

 もっともその後の5年間、ガニとアブドゥラは、政府内で重要性政策をめぐって対立し続けた。

 2014年当時はまだ、カブールにおける対立はタリバンを利するだけだ、という合言葉で、何とか危機は回避された。

 しかし今回は違う。トランプ政権下のアメリカが、タリバンとの和平合意に熱心に取り組んでいる。「タリバンを利するだけだ」という合言葉は、もはや政治的妥協へのインセンティブにはならない状況なのだ。

 ガニ大統領は、米コロンビア大学でPh.D.(博士号)を取得し、複数のアメリカの大学やシンクタンクで研究職に就いた後、1990年代には世界銀行で活躍した国際派である。あるいは非常にワシントンDCに近い人物だと評してもいいだろう。

 ガニは、2001年のタリバン政権崩壊後に成立した暫定政権の首班となったハミド・カルザイに大統領主席参与として招かれた後、財務大臣に就任し、国際機関やドナー諸国の圧倒的な信頼を得た有名大臣となった。しかしアフガニスタン政界の混乱に嫌気がさしたとされ、2004年末に辞任してしまった。

 その後はコフィ・アナンの後釜として国連事務総長に就任することを狙っていたとされるが実現せず(2007年に潘基文=パン・ギムン=が就任)、2009年にカルザイの対抗馬としてアフガニスタン大統領選挙に立候補した。結果は惨敗だったが、カルザイの任期満了に伴う2014年選挙において、大統領に就任した。

 今やカルザイ前大統領はガニ大統領の最大の批判者だが、両者が険悪な関係に陥ったのは、カルザイが大統領2期目にアメリカへの批判を隠さなくなった時期と一致する。

 アメリカはガニ大統領の最大の後ろ盾であり、アフガニスタンに関与するNATO(北大西洋条約機構)構成諸国も同じだ。3月9日の大統領就任式でも、外交官たちはガニの就任式の方に出席した。

 ちなみにガニ大統領は、アフガニスタンの最大民族集団であるパシュトゥーン人集団の出身である。2001年にカルザイを発見したときから、アメリカはパシュトゥーン人の大統領を望んできている。パシュトゥーン系の人々を基盤とするタリバンに対抗するためにも、大統領はパシュトゥーンでなければならない、というある種の確信を、多くのアメリカ人たちは持ち続けてきている。

 しかしパシュトゥーン人は、アフガニスタン全人口のせいぜい42%程度を占めているに過ぎない。しかもアフガニスタン領内の約1400万人のパシュトゥーン人に対して、パキスタン領内には約3200万人のパシュトゥーン人がいる。アメリカのパシュトゥーン優遇姿勢は、パキスタンの怪しい態度に左右されてきた過去の評判の悪い政策とも結びついている。

 ガニと好対照をなす政治家が、アブドゥラ・アブドゥラだ。1979年当時、眼科医だったアブドゥラが政治運動に関わるようになったのは、ソ連侵攻に憤ったためであった。ムジャヒディンとして抗ソ戦争に加わり、伝説的司令官アフマド・シャー・マスードの補佐官として頭角を現した。

 国土の9割をタリバン政権が実効支配する中で、パンジシール渓谷と呼ばれるタジク人地域を死守し続けていたのが、マスードの北部同盟であった。

 アル・カイダのオサマ・ビン・ラディンは、マスードなき北部同盟は陥落したのと同じだと見なして、マスード暗殺直後に9・11テロを決行した。だが、アメリカの空爆で撤退するタリバンの後を追って次々と都市を掌握していったのは、息を吹き返した北部同盟であった。

 北部同盟が最初にカブールに入ることを懸念したパキスタン政府に配慮した当時のジョージ・W・ブッシュ米大統領は、アメリカの地上部隊が到着するまでカブールに入ってはならない、と北部同盟に向けた声明を出した。

 しかし北部同盟はそれを聞き入れず、米軍に先立ってカブールも制圧した。本来はパシュトゥーン人地域であるカブールの至る所に、タジク人のマスード将軍の肖像画が英雄として飾られるようになったのは、こうした歴史的経緯があればこそである。

 首班となったカルザイも、請われて世銀から移ってきたガニも、当時のアフガニスタンでは実権のない知識人にすぎなかった。アフガニスタンをタリバンから守り通したのは自分たちだという気概を持っているのは、アブドゥラのような旧北部同盟の政治家たちである。

 ちなみにアブドゥラは、他の多くの北部同盟系の政治家と同じように、アフガニスタンの人口の27%程度を構成しているとされるタジク人を基盤にする。

 彼らは筋金入りのタリバン対抗勢力であり、トランプ大統領のアメリカがタリバンに融和政策をとることに対し、表向きは和平合意に反対しないとしても、決してタリバンの権力獲得を許さないだろう。恐らくはパキスタンに対抗してでも、タリバンと戦い続ける。実際のところ、アメリカ撤退後にタリバンと対決する勢力の中核には、彼らがいなければならない。だからこそアメリカも、ぎりぎりのところで、実はアブドゥラたちを捨て去ることまではできないのだ。

アフガニスタンの行方

 これからアフガニスタンはどうなっていくのか。混沌とした状況の中の見通しの不透明感に、焦燥は募る。

 1つ、はっきり言えるのは、撤退モードに入ったアメリカだけを中心にアフガニスタンを捉えるのは近視眼的だ、ということだ。

 日本人の中には、アフガニスタンの話となると、アメリカの失敗、アメリカの傲慢、アメリカの力の低下、アメリカ内の権力闘争……といった、アメリカ中心主義的な話題だけを延々とする人があまりに多い。確かに2001年以降のアフガニスタンにおいて、アメリカの介在は決定的な要素だった。

 しかし、アメリカ介入以前のアフガニスタンが、何も問題のない平和な国家であったわけではない。全く逆である。アメリカの撤退は、アフガニスタンが旧来の構造的な問題に、複雑化した応用問題群の中で、再び本格的に取り組まなければならないことを意味している。

 アフガニスタンは、内部に民族対立を抱え、世界政治ではグレート・ゲームの構図で「大陸国家」と「海洋国家」の勢力争いに巻き込まれるだけではない。

 南アジアにおけるインドとパキスタンの確執、中央アジア諸国の権力政治、中東の原理主義勢力の伸長や、イランのイスラム革命以来のシーア派とスンニ派の抗争の影響が覆いかぶさり、そこにアメリカが主導する対テロ戦争と中国の経済戦略「一帯一路」構想の余波が及んできた。アメリカ撤退後こそ、世界全体の構図と地域情勢をにらんだ政策決定プロセスがなければ、アフガニスタンは必ず破綻する。

 日本が善意の第三者として重要な役割を演じることができる、といった根拠のない夢物語は、現代世界ではもはや思いつく者もいないだろう。

 しかし、だからこそ、注意深くアフガニスタンを見守る分析者の態度は、維持し続けておかなければならない。アフガニスタンから何が引き起こされるのか、誰にもわからないからだ。

篠田英朗
東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程、ロンドン大学(LSE)国際関係学部博士課程修了。国際関係学博士(Ph.D.)。国際政治学、平和構築論が専門。学生時代より難民救援活動に従事し、クルド難民(イラン)、ソマリア難民(ジブチ)への緊急援助のための短期ボランティアとして派遣された経験を持つ。日本政府から派遣されて、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)で投票所責任者として勤務。ロンドン大学およびキール大学非常勤講師、広島大学平和科学研究センター助手、助教授、准教授を経て、2013年から現職。2007年より外務省委託「平和構築人材育成事業」/「平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業」を、実施団体責任者として指揮。著書に『平和構築と法の支配』(創文社、大佛次郎論壇賞受賞)、『「国家主権」という思想』(勁草書房、サントリー学芸賞受賞)、『集団的自衛権の思想史―憲法九条と日米安保』(風行社、読売・吉野作造賞受賞)、『平和構築入門』、『ほんとうの憲法』(いずれもちくま新書)、『憲法学の病』(新潮新書)など多数。

Foresight 2020年3月19日掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。