「第2次難民危機」招くトルコ「国境開放」をEUは抑え込めるか

国内 政治

  • ブックマーク

Advertisement

 シリア北部での戦闘激化と、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領の強硬な態度により、欧州の頭上には再び難民危機の暗雲が広がり始めた。

7万6000人がギリシャへ

 危機の焦点は、ギリシャ北東部のカスタニスに近いトルコとの国境地帯だ。ここには3月初めから多数のシリア難民らが集まり、金属製のフェンスを突破してギリシャに侵入しようと試みている。これに対抗するギリシャの警官隊は、催涙ガスや放水車によって、難民の侵入を食い止めようと必死だ。

 難民がこの地域に殺到している理由は、エルドアン大統領が2月29日、

 「我々はEU(欧州連合)との国境を開け放った。約7万6000人の難民がギリシャ国境を通過した。EUはまもなく100万人の難民に直面するだろう」

 と宣言したからだ。この宣言通り、トルコ政府は他の地域からシリア難民をバスで国境地帯に送り込んでいる。

 国連の推定によるとこの地域でEUへの出国を待つ難民の数は約1万3000人に達する。女性や子どもを含む難民たちは、プラスチックシートや材木を使ってテントを作り、雨に濡れた荒れ地で寝泊まりしている。

 一方ギリシャ政府は、

 「約7万6000人の難民がギリシャに入ったという事実はない。フェイクニュースだ」

 として、エルドアン大統領の発言を否定。同国のスポークスマンは、

 「2月29日からの24時間に約1万人の難民が国境を突破しようとしたが、追い返した」

 と述べ、

 「ギリシャの警官隊が発砲して、2人の難民が死んだ」

 というトルコ政府の主張もデマだとして退けた。さらにギリシャ政府は、

 「1カ月間にわたって亡命申請権を停止する」

 とも発表している。これは、ギリシャに入国すれば亡命できると考える難民の希望を挫くためだ。

 EUの外務大臣に相当するジョセップ・ボレル外務・安全保障政策上級代表は、3月6日にクロアチアのザグレブで開いた緊急外相会合で、シリア難民らに対し、

 「ギリシャとの国境地帯には行くな。国境は開いていない。違法な入国は絶対に許さない」

 と警告した。

 その上EUは、ギリシャ政府を支援するために7億ユーロ(約840億円)の資金を供与するとともに、外縁部の警備を担当する欧州対外国境管理協力機関(FRONTEX)から100人をトルコとの国境地帯に派遣した。

 これに対してトルコ政府は、警察の特殊部隊から1000人をこの地域に派遣し、難民の出国を支援しようとしている。難民がギリシャに入れるように、トルコ警察がフェンスにバーナーで裂け目を作ったり、車両にロープを付けてフェンスを引き倒そうとしたりしているという情報もある。

36人の兵士が死亡したシリア空爆

 なぜエルドアン大統領は「国境を開けた」と宣言したのだろうか。その原因は、去年10月9日まで遡る。

 その日、大統領は戦闘部隊をシリア北東部に侵攻させた。目的はこの地域を支配していたクルド民兵部隊を駆逐して、トルコとシリアの間に幅30キロの緩衝地帯を作ることだった。ここは、クルド民兵部隊を中核とするシリア民主軍(SDF)が、テロ組織「イスラム国(IS)」を撃破し、支配下に収めていた。

 だが、クルド民兵部隊をテロ組織と見なしているエルドアン大統領にとって、クルド人は不倶戴天の敵だ。そのため、将来クルド人たちがこの地域をトルコ攻撃のための出撃拠点にすることを防ごうと、シリアに兵を進めて国境地帯から彼らを追い払おうとしたのだ。

 シリア軍はSDFの救援要請を受け入れ、自国に侵攻したトルコ軍に対する攻撃を開始した。戦闘の焦点になったのは、トルコ国境から約30キロの町イドリブだ。

 イドリブは、アサド政権に抵抗する反政府勢力の拠点でもあったため、シリア軍はこの町に容赦なく砲爆撃を行った。それは、軍隊と非戦闘員を区別しない無差別の砲爆撃だった。

 この地域での両軍の戦闘が激化すると、約68万人の市民が難民化して北部へ向けて逃げた。その中には、シリアの他地域での戦闘から逃れて、イドリブ周辺に仮住まいしていた難民も含まれていた。マイナス9度の気候の下で野宿していた幼児が凍え死んだり、4人家族がテント内でガスヒーターを使ったために一酸化炭素中毒で死亡したりするという過酷な難民生活も報じられている。

 そこへ来て、2月27日、エルドアン大統領を窮地に陥れる出来事が起きた。シリア軍の空爆によって、トルコ軍の兵士36人が死亡したのだ。エルドアン大統領は北大西洋条約機構(NATO)に軍事援助を要請した。NATOの加盟国であるトルコにしてみれば、当然のことである。しかしNATOは、

 「状況がこれ以上エスカレートしないように、シリア北部の戦闘の全ての当事者は矛を収めるべきだ」

 という声明を発表するだけで、トルコへの軍事支援を断った。

 その理由は、シリアがロシアのプーチン政権の強力な支援を受けているからだ。

 去年10月のトルコのシリア侵攻に対しても、NATOはこの地域の緊張を高める危険があると、批判的な態度を取っていた。もしNATOがトルコを支援するために軍事介入などすれば、シリアの背後にいるロシアと対決することになる。NATOがトルコに対する軍事支援を断ったのは、そのためだ。

超法規的措置をとったメルケル

 エルドアン大統領が「ギリシャとの国境を開放した」と発表したのは、36人のトルコ兵が戦死した2日後である。国民の前で面目を失った彼は西欧諸国に見放され、難民を「武器」として使うという極端な作戦に出た。彼は、西欧諸国にとって、多数の難民の流入が最大の急所であることを知っているからだ。

 EUの統計によると、2015年のシリア内戦の激化を要因とする、EU加盟国への亡命を申請した外国人の数は約132万人。これは欧州にとって第2次世界大戦以来、最大の難民流入だった。

 その大半が、難民に対する待遇が比較的良いドイツで申請している。ドイツでの亡命申請者数が多くなったもう1つの理由は、アンゲラ・メルケル首相が2015年9月に超法規措置として、ハンガリーで立ち往生していたシリア難民らに対し、ドイツでの亡命申請を特別に認めたからである。

 本来、EUの一国に到着した難民は、ダブリン協定に基づいて、最初に着いた国で亡命申請手続きを取らなくてはならない。たとえば、ギリシャに着いた難民はギリシャで亡命申請を行うのが筋だ。これは難民が、待遇の良い国を目指して、EU域内で移動するのを防ぐためである。

 だが2015年、メルケル首相は人道的な理由から、あっさりとダブリン協定を破って難民を受け入れた。しかも彼女は、オーストリアを除けば英仏など他の加盟国と一切事前に協議せず、ほぼ独断的に受け入れに踏み切ったのである。当時、ミュンヘン中央駅には、毎日2万人の難民が列車で到着した。それを目の当たりにした多数のドイツ人が、

 「我が国の政府は、国境のコントロールを放棄した」

 という印象を持った。

 多くのドイツ市民を困惑させたこの措置は、当時泡沫政党だった右翼政党「ドイツのための選択肢(AfD)」の得票率を大幅に増やす原因の1つにもなった。

 市民の不安感を追い風にしたAfDは、2017年のドイツの総選挙で初の連邦議会入りを果たし、一挙に第3党の地位についた。特に旧東ドイツの一部の州では得票率が20%を超える支持を集めた。ドイツの政治学者の間では、

 「AfDの大躍進は難民危機なしにはあり得なかった」

  という意見が多数を占めている。これはドイツのみならず他のEU加盟国でも、難民数の増加が、右派ポピュリスト政党にとって絶好の跳躍台となった。

EUが約束を反故にしたと主張

 だが2017年には、EUで亡命申請する難民の数が、前年比で約44%も減った。その最大の功労者が、トルコのエルドアン大統領である。

 彼は、2016年3月にEUとの間で難民協定を結び、トルコ経由でEUに入った難民は、トルコに送還されて同国の施設に収容されることとなった。代りにEUでは、すでにトルコに滞在している難民の中から、トルコに送還された人数と同数の難民を受け入れなければならない。

 トルコが受け入れた難民数は、約360万人にのぼる。世界でトルコほど多くシリア難民を受け入れている国は、他にない。トルコは難民協定を通じて、EUにとって防波堤の役割を演じたのだ。

 またEUは、難民受け入れがトルコ経済に及ぼす負担を軽減するため、現地で難民支援を行っている国際機関などに総額60億ユーロ(約7200億円)を供与することにもなった。さらに、トルコ人に対するビザ取得義務の緩和や、関税協定の改善に関する交渉、中断していたトルコのEU加盟交渉の再開にも応じると約束した。いずれもエルドアン大統領が以前から切望していたことばかりである。

 この他、レバノンが93万人、ヨルダンが66万人の難民を受け入れている。つまりEUにやって来る難民数が大幅に減ったのは、トルコなどの3カ国が519万人もの難民を受け入れたからなのだ。EU諸国が、多数の難民流入を防ぐ上で、トルコに大きく依存していることは間違いない。

 しかしエルドアン大統領は、最近EUに対して、同国で活動する国際機関だけではなく、トルコ政府にも直接資金援助を行うよう要求していた。これにEUが難色を示すと、エルドアン大統領は、

 「EUは我が国との約束を履行していない」

 と主張。彼はEUが追加的な資金援助について前向きでないことも、2月29日に「水門」を開いた理由の1つに挙げている。

 なおかつEUが難民協定に反し、トルコ人に対するビザ取得義務の緩和や、トルコのEU加盟交渉の再開などに応じなかったことにも、大統領は不満を募らせていた。

 が、これにはEU側にも言い分がある。2016年7月、トルコで起きたクーデター未遂事件後に、エルドアン大統領が反政府勢力だけではなく報道関係者や公務員、司法関係者などに対する徹底的な弾圧を行ったためだという。EUは、

 「言論の自由や司法の独立、基本的人権など、EUが重視する価値が、トルコで抑圧されている状況にあり、同国の要求を完全に受け入れることはできない」

 と判断して、難民協定でトルコ側が求めた条件を履行しなかった。国際人権保護団体アムネスティ・インターナショナルは、

 「エルドアン政権は、クーデター未遂事件後、公務員や兵士、報道関係者など約5万人を拘留し、出版社や新聞社180社が閉鎖された」

 と主張している。

「脅迫には屈しない」

 トルコの「独裁者」が強硬手段に出た背景には、国内での支持率の低下もある。トルコの世論調査機関「メトロポール」によると、トルコ軍のシリア侵攻前には、エルドアン大統領の政策に不満を持つ回答者は35%だったが、侵攻後には52%に上昇している。

 36人もの兵士を一度に失ったことで、大統領のシリア侵攻作戦についての国民の不満がさらに高まる可能性がある。こうした難局を打開するために、彼は難民を将棋の駒のように使ってEUに圧力をかけ、資金援助か軍事支援を引き出そうと目論んでいる。「おれの要求を受け入れなければ、もっと難民をEUに送り込んで混乱を生じさせるぞ」というわけだ。

 だがEU側は、エルドアン大統領の要求を頑としてはねつけた。メルケル首相は3月2日、

 「エルドアン大統領が難民をギリシャとの国境地帯へ移動させ、難民をシリアでの問題解決に使おうとしていることは、受け入れ難い行為だ。トルコは難民たちを袋小路に追い込んだ」

 と強く批判した。

 ウルズラ・フォン・デア・ライエンEU欧州委員会委員長も、

 「トルコが数百万人のシリア難民を抱えて難しい状況にあることは、理解できる。このため、我々はトルコと話し合いをする用意がある。しかし現在トルコ・ギリシャ国境で起きていることは、事態の解決にはならない」

 と釘を刺した。

 またギリシャのキリアコス・ミツォタキス首相は、

 「EUの結束を揺るがそうと試みる者は、失望するだけだろう。欧州は、恐喝には屈しない」

 と強い言葉でトルコの姿勢を批判している。

 ここでトルコに対してEUが譲歩した場合、将来もエルドアン大統領の「難民カード」によって「恐喝」される危険がある。EUは悪しき前例を作らないためにも、あらゆる手を使って、難民の流入を防ごうとするだろう。その意味でトルコ・ギリシャ国境での事態の今後の展開は、欧州全体の政局に大きな影響を与えることは間違いない。

新型コロナとのダブルパンチ

 「第2次難民危機」は、現在、新型コロナウイルス対策と並んで、ドイツ政府にとって最も重要な課題となった。

 ドイツは来年秋に連邦議会選挙を控えている。AfDはこの機を捉え、旧東ドイツだけではなく、旧西ドイツでも得票率を増やすことを目指している。このため「キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)」など中道保守政党では、

 「2015年の難民危機のような事態は絶対に繰り返してはならない」

 という意見が強まっているという。ホルスト・ゼーホーファー内務大臣(CSU)が3月3日に、

 「万一EUの外縁(ギリシャ国境)が突破された場合、ドイツ政府は自国の国境で難民の入国を阻止する」

 と強硬な発言を行ったのは、保守層の不安の表れだ。

 このような動きに対し、3月1日、リベラル左派政党「緑の党」のアンナレーナ・ベアボック共同党首は、

 「EUはトルコと新たな難民協定を締結し、ギリシャに入国する難民を加盟国の間で配分して受け入れるべきだ」

 と述べ、ドイツを含むEU加盟国が難民を受け入れるべきだという見解を打ち出した。これは2015年のメルケル首相の政策に近い。

 だが多くのEU加盟国、特にハンガリーやポーランドなど中東欧諸国は、これまでも難民の受け入れに強く抵抗してきた。今回の危機で、EU各国間でシリア難民をすんなりと配分できる可能性は極めて低い。しかも欧州では、イタリアを中心として新型コロナウイルスの感染者数が急増しており、いわばダブルパンチに襲われている。新たな難民受け入れどころではないという国がほとんどだ。

 現在のところドイツでは緑の党への支持率がCDU・CSUに次いで2番目に高くなっており、来年の総選挙で緑の党の連立政権入りは確実と予想されている。だが、難民問題をめぐる議論で、緑の党が人道的な理由から難民受け入れを強く要求した場合、市民の間で反発が強まり、支持率は減るだろう。それほどまでにドイツでは「難民危機の再来はもうこりごり」という雰囲気が強いのだ。

 いずれにせよEUは、トルコの協力なしには、第2次難民危機のエスカレートを防ぐことはできない。その意味でエルドアン大統領を早急に交渉のテーブルにつかせ、国境開放宣言を撤回させる必要がある。

 EUはアメとムチの両方を駆使しながら、シリアの袋小路で苦しむ「独裁者」の説得に成功するだろうか。

熊谷徹
1959(昭和34)年東京都生まれ。ドイツ在住ジャーナリスト。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン特派員を経て1990年、フリーに。以来ドイツから欧州の政治、経済、安全保障問題を中心に取材を行う。『5時に帰るドイツ人、5時から頑張る日本人』(SB新書)、『イスラエルがすごい マネーを呼ぶイノベーション大国』(新潮新書)、『ドイツ人はなぜ年290万円でも生活が「豊か」なのか』(青春出版社)など著書多数。

Foresight 2020年3月12日掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。