豪雨被災「宮城県丸森町」養蚕文化伝承者たちの再起

ライフ Foresight 2019年11月24日掲載

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「山津波」――。台風19号が各地に豪雨水害をもたらした10月12日の夜、宮城県丸森町は町域全体が浸水や土石流の被災地となり、ある住民はその有様を、「山から津波が来たよう。山津波だった」と筆者に語った。

 丸森町は直前まで、宮城県一の繭生産を誇っていた。歴史ある養蚕業の文化の伝承者たちは水害でどんな経験をし、どう乗り越えようとしているのか。以前取材をし、いまは被災地となった小さな町を訪ねた。

「猫神」に守られた町

〈「猫神」をご存じだろうか。丸まったり、背を伸ばしたり、寝入ったり。猫の姿がリアルに彫られた石碑や石像が80余基も宮城県丸森町に残る。多くは江戸から明治の時代にまつられ、養蚕農家の守り神とされた。生糸を取る繭を食い荒らしたのがネズミ。それを退治する猫はありがたい味方だった。〉(2018年4月19日『河北新報』コラム「河北春秋」より)

 筆者が記者時代に書いたコラムの一節である。

 東北のオオカミ信仰発掘で知られる民俗研究家の石黒伸一朗さん(61)=宮城県村田町歴史みらい館専門員=が、猫の石碑の存在を知ったことをきっかけに2005年から調査し、宮城県南部の阿武隈山地につらなる丸森町でこれまでに81基の石碑、石像を見つけた。

 1702(元禄15)年に出された養蚕書『蚕飼養法記』に、「家々に必ずよき猫を飼い置くべし」との記述があるという。

「蚕の天敵、ネズミを退治する猫への神頼みのような思いが、江戸後期、養蚕農家の間で『猫神』という信仰にまでなったのではないか」

 と石黒さん。石碑や石像が神社やお堂、民家の庭などにまつられ、明治〜昭和初期に町内で操業した佐野製糸場も建立した。石黒さんが発掘した最古の石碑は同町中島地区の中島天神社にあり、「猫神」「文化七年」(1810年)と刻まれていた。

「昭和40年代まで丸森町には2000戸以上の養蚕農家があって、生糸の生産が宮城県内一でした。猫神はその歴史の語り部」

 と同町教育委員会教育長の佐藤純子さん(64)は語った。

 自宅に大正時代からの古い機織り機が4台ある。売り物にならぬ「くず繭」も生かし、主婦が反物を織るのが地元の暮らしだった。母・美穂さん(88)は美術展で受賞歴もある伝統の織り手だが、その数もいまは一握り。

「町内で養蚕を続ける農家もわずか5戸になっていました」

 それぞれが「点」の存在だった養蚕、絹の文化の伝承者をつなぐ「コアトリエ」(生業の共創)という運動が始まったのは、2017年。元中学校長の佐藤さんは定年後、仙台市の東北工業大学で学び、地域の伝統資源と歴史ある生業の再生を支援する「コアトリエ」を東北各地で広めている大沼正寛教授(47)と出会った。

 丸森町では、同県内で10戸しかない現役養蚕農家の半数が生業を営んでおり、大内という集落の主婦たちが守る「大内佐野地織保存会」、10年前から主婦3人が繭細工を作る「ほ~っといっぷく陽だまり工房」が活動する。桑の葉の繊維に生糸を加えて漉く「シルク和紙」(桑絹紙)の作家もおり、

「担い手の方々に呼び掛けて初めて一堂に会する場をつくり、それから互いの交流、養蚕文化を町民に再発見してもらうイベント、町外への発信も盛んになりました」(佐藤さん)

 人口1万3000の町のシルク・ルネサンス運動は地元メディアから紹介され、シンボルの「猫神」を巡る人気のツアーも催された。守り人たちの思いが実りつつあった矢先、予期せぬ大災害が起きた。

よみがえった大震災の光景

 10月12日の夜、日本に上陸した台風19号が東北の太平洋岸を広く襲った。阿武隈川に抱かれるような丸森町の中心部は、支流の五福谷川などの氾濫で半ば水没したような光景となり、12時間で517.5ミリもの凄まじい降水量を記録した筆甫(ひっぽ)地区など郊外の山間地域では、土砂崩れや土石流の被害が相次いだ。犠牲者も11人(うち行方不明1人)を数える。

 約1カ月後の11月10日、筆者は大沼正寛教授と共に、被災地となった丸森町を訪ねた。「コアトリエ」の運動でつながった養蚕文化の伝承者たちの状況を確かめるためだった。

 町の中心街を浸した膨大な水はすでに排出され、多くの家々や商店では泥のかき出し、清掃を終えていたが、再開している店や食堂は少なく、日曜とあって人の姿もまばらだった。

 大沼さんの車で目指したのは、中心部から南へ十数キロの筆甫地区(標高300〜400メートル)。地元の養蚕農家、目黒啓治さん(71)が被災していないかどうか、心配を抱えながらの訪問だった。

 いつもなら真っすぐ南に走る県道を経由するが、沿線のもう1つの支流、内川も氾濫して通行止めとなっており、迂回路は五福谷川沿いを山へ向かう少々険しいコースだった。

 中心部を離れて間もなく、五福谷地区に差し掛かった。

 1962年完成のコンクリート造りの五福谷橋が地元のシンボルだ。豪雨の夜、この橋は上流から運ばれた無数の流木や土砂で蓋をされ、堰き止められてあふれた濁流が両岸を襲ったという。渦巻いた水の勢いで、左岸にある護岸壁や家屋の土台は深くえぐられ、橋のたもとの2階建ての商店が沈み込むように傾いている。橋の一端は崩落し、右岸の家々は途方もない量の土砂に埋もれていた。

 筆者の目には、8年前の東日本大震災の被災直後を再び見るかのような光景だった。

「山から押し寄せてきた土砂の津波だ。あれは『山津波』だった」

 と町の人から聞いた。

ずっしり重い泥と闘い

 山道を走りながら土砂崩れ、道路損壊の現場をいくつも通り過ぎ、筆甫地区に入ると、無残に崩壊した家が1軒見えた。豪雨の後、地区全体が一時孤立し、住民は自衛隊のヘリで水や食料を届けてもらったという。

 高台の目黒さんの家は健在で、前にたくさんの車が停まっていた。前日から大勢のボランティアたちが通っており、この日は17人という。母屋は無事だが、そばに建つ大きな養蚕施設を裏山からの土石流が直撃し、厚さ40センチほどの山土の泥を施設内の床にあふれさせたのだ。川が運んだ土砂と違い、水を含んだ山土はゴムのように粘っこく、スコップにずっしりと重い。

「12日の夕方、防災会の役員3人で集会所に寄り、住民の安否確認の電話をしていた。6時ごろ、収穫したコメの様子を見に一度家に戻り、ご飯を食べて戻ろうとしたところ、土石流が起きた。6時半ごろだった」

 と目黒さん。筆者も養蚕施設の裏に回ってみると、山の斜面から100メートルほども土砂が滑り落ちた跡があった。

「きれいな水が流れる沢で、昔から飲料水に利用していた」

 伐採された太い杉の切り株がいくつも引き抜かれたように転がり、後から植林された若木の多い、根の張りの弱い地盤が大量の水の重さに負けて崩れたものと見えた。

 養蚕施設の中に、長さ2メートルほどのワゴン(かご)を100基近くさげた、4段のコンベアのような設備がある。ワゴンで蚕を飼い、それらを順繰りに回して全自動で桑を給餌するシステムで、長野県の養蚕農家から中古を譲り受けたそうだ。泥流入の勢いで設備の支柱が一部曲がり、動くかどうか分からない状態だ。

「今年の養蚕の作業はすでに終わって、9月に繭の出荷を終えていた」

 と目黒さん。

 祖父以来3代目の養蚕農家で、毎年、隣接する福島県伊達市から蚕種(蚕の卵)を仕入れ、かえった蚕を大事に稚蚕室で育てる。7月から9月まで3度の養蚕期でそれぞれ8万頭(匹)を全自動の給餌設備で飼い、今年は計500キロ近くの繭を生産していた。

 父親の跡を継いだのは20代半ばのころ。丸森町が伝統の養蚕と高原の酪農を絡め、「ミルクとシルク」と銘打つ町興しと農家支援に乗り出した時だ。

 300世帯ある筆甫地区では、かつて家々の3分の1が蚕を飼っていたというが、いまは1人だけ。

 孤立すれば苦しいが、「コアトリエ」の活動がきっかけで、目黒さんら各地区に残った希少な存在は、町主催の「シルクフェスタ」で「養蚕農家5人衆」と紹介され、互いに絆が生まれた。今回の豪雨水害で仲間たちに大きな被害はなく、目黒さんの被災を聞いて手伝いに来てくれた人もいた。

 地元の養蚕が途絶えれば、地織などの特産品づくりを続ける担い手に致命的だとも目黒さんは考えている。

「私のところは桑畑が大丈夫で、問題はワゴンが回るかどうかで、来年への準備を考えるよ。だめであれば、昔のような(木の)養蚕棚を作ってやるしかないんだね」

 と語り、養蚕を諦めるつもりはない。

娘の後継者宣言に励まされ

 同じ迂回路を戻って、大沼さんと次に向かったのは同町中島地区。

 途中、急ぎ足だった往路で通り過ぎた短いコンクリート橋の姿に、思わず車を停めた。上流からの流木などで蓋をされたのでなく、膨大な濁流そのものの力で前後の護岸がばらばらに破壊され、一部は護岸の内側の土をすべて流出させられ空洞になって、底の川面をのぞかせていた。

 中島地区は、前述した五福谷橋のある五福谷川と、東を流れる別の阿武隈川支流、内川に挟まれて豊かな田畑の広がる地域だ。

 ところが、見渡す限り泥沼が乾いたような景色で、濁流に流された車がいくつも埋まっていた。車の中で亡くなった人もいたという。県道の両側にはおびただしい流木と土砂の山が続き、その間にまるで孤立した島々のように民家が点在している。

 そのうちの1軒、舩山達子さん(68)の家では7、8人のボランティアの人々が、床上浸水した自宅の周り、別棟の工房の前で片付けや清掃に追われていた。

 桑の繊維と生糸を混ぜて独特の光沢を生む「シルク和紙」を前述したが、船山さんはその希少な作家だ。

 曽祖父の代からコウゾ、ミツマタを原料にする「五福谷川和紙」の手漉き職人の家。

「父(恒男さん)の仕事を見て、道具もすべてある環境に育って」自然と後継者の道を選び、自らの工房を建てた。

 シルク和紙を初めて手掛けたのは2001年。県産生糸の新用途を開こうと県蚕業試験場が研究し、舩山さんが筆甫産の生糸でその技術を形にした。同じ年にあった新世紀・みやぎ国体夏季大会の賞状に使用され、選手から評判を呼んだのが始まりだ。

 工房には高さ1メートルに達する浸水があった。あっという間だったという。

「大水が出そうだ、と午後6時すぎに家族で『畳を上げよう』と話し合っていたら、突然、浸水で畳を持ち上げられ、命からがら2階に避難しました。工房や作品を救う余裕なんてなくて……。いまも2階暮らしが続いています」

 紙漉きの水槽にも泥水が入った。

 舩山さんが無念そうに触れたのが、漉き上げて重ねていた500〜600枚の和紙。重みで水を抜き、乾燥させるばかりの状態だった。

 目に痛かったのが、泥で汚れた繭玉。糸巻き機械の下の床に転がっていた。町内の養蚕農家から分けてもらい、新鮮なまま冷蔵していた本年産の材料の繭も、冷蔵庫が壊れて全部だめになった。

 舩山さんのシルク和紙を使って日本画を制作している画家がいる。仙台市の飯川竹彦さん、知世さん夫妻。柔らかな質感と輝きが他に代えられない、と毎年舩山さんに注文していた。

 だが、今年はもう新しいシルク和紙を作れない。泥で汚れた品もすべて処分した。夫妻には申し訳ない思いで、

「いままで漉いてあったもののうち、端が欠けたりして売り物にならないものを『せめて使ってください』と送りました。そうしたら、代金を入れてくださったんです」

 ただ、被災の衝撃は大きく、舩山さんははじめ「紙漉きをやめようかな」と家族に漏らした。

「その気持ちが半分あった」

 と揺らいだ時、

「そんなこと言わないで。何のために私がここにいるの。私が継ぐから」

 そう訴えたのが、同居する三女の美貴さん(42)だ。

「母が仕事で忙しい間、子育てをし、家を切り盛りしていたけれど、これから手伝いながら学び、生業としての売り方も考えていきたい」

 と筆者に語った。渦中の「後継者宣言」。それぞれに被災した養蚕文化の担い手たちの協働も、未曽有の試練を乗り越えて続くことになった。

「猫神」も生き延びた

 舩山さんの自宅・工房のそばに、中島天神社がある。冒頭で紹介した、丸森町内で最古の「猫神」の石碑がある所だ。

 天神社の被災もひどく、赤い鳥居は流木と土砂にてっぺん近くまで埋もれ、杉木立の中の古い社殿も濁流の向かった方向に押し潰されかけていた。

 境内で猫神を見つけた前述の石黒伸一朗さんは、丸森町の水害を知って先月14日に現地へ行ったが、水が引かない状態で断念し、同16日に再度訪ねたものの泥の中から探し出せなかった。

「流されたのではないか、と気が気でなかった」

 と言う。

 3度目の挑戦は、このリポートの取材行と同じ11月9日だった。

「社殿の中には2メートルほどの高さまで土砂がたまっていた。いかにすごいものだったか」

 石黒さんは、古い石碑がかたまっている境内の一角に狙いをつけ、土砂をスコップで掘ると、

「20センチくらい下に手応えがあった。用意してきた水とブラシで洗うと、あの文化七年の『猫神』だった」

 丸森町の養蚕業と文化の守り神もまた、「山津波」の苦難を生き延びた。

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/