オールド・ラグビーファンに捧げる「名将物語」(1) 北島忠治・明治大学監督

スポーツ

  • ブックマーク

Advertisement

 数年前ならカープ、今ならラグビー。何らかの競技やチームが盛り上がると、急に増えるのが「にわか」ファン。揶揄する向きもいるだろうが、誰でも最初は初心者であることを考えれば、にわかでも何でもファンが増えることはスポーツ界にとっては喜ばしいことに違いない。

 とはいえ、昔から応援していた人の中には複雑な気持ちを抱く人もいることだろう。あの名試合、あの名選手、あの名監督を知らずにファンと名乗ることなかれ――。が、そんなことを口にした途端に煙たがられること必至。

 そこで、昔からのラグビーファンのために、盛り上がっている今だからこそ、往年の名指導者についてのノンフィクションを『指導者の条件』(黒井克行・著)から2回にわたって掲載しよう。

 第1回目の名将は北島忠治(1901~96)。何と67年間にわたって名門・明治大学ラグビー部監督を務めた人物である。以下、同書から北島に関する章(「僕の体の中には後退という文字はない」)の全文である。(文中敬称略)

 ***

「試合のメンバーが1人足りないんだ」

 明治大学ラグビー部の“助っ人”要請に、相撲部の暴れん坊に白羽の矢が立った。「押すだけなら」と、1試合だけのつもりだった。

「ぶつかり、押し合い、突進する。これは四角い土俵の相撲だな」

“学生相撲界の大ノ里(当時の小兵の大関)”の異名をとる猛者は、すっかりラグビーに魅せられた。これを機に活躍の場を土俵からグラウンドに移し、卒業後もそのまま指導者に転じ、死ぬまでの67年間をラグビー一筋に生きるのである。

 明治大学ラグビー部北島忠治元監督。

 同部の歴史はこの男の生き方そのものと言って過言ではない。

 明大ラグビー部関係者は北島を“オヤジ”と呼ぶ。北島晩年の頃の部員にとっては“おじいちゃん”の方がピンとくるだろうが、今なお世代を超え、北島の教えは明治ラグビーの魂として受け継がれている。彼らにとって北島は指導者であると同時に教育者、そして人生の何たるかをも教えたオヤジそのものだった。

 1901年、北島は新潟県東頸城郡安塚村(現上越市安塚区)で生まれた。日露戦争で父を亡くした北島は12歳の時、母方の伯母を頼って上京した。新宿・神楽坂のそこは花街でもあり、田舎から出てきた少年には刺激的だった。しかし、ヤンチャだが愛嬌に富む北島は芸者衆に可愛がられ、難癖をつける地回りとの喧嘩には連戦連勝、終いには喧嘩を売ってくる相手もなく、“坂の忠治”と知られる存在となる。

 1921年、明大専門部に入学するや相撲部に入った北島は身長162センチ体重82キロの小兵ながら足腰と向こうっ気の強さで、得意の押しで巨漢を土俵下へ突き落とす。そんな気性と身体の強さが見込まれてラグビー部の助っ人として請われるわけだが、北島は広いグラウンドという“土俵”で30人のぶつかり合いを審判が仕切り、その判定には異議を唱えてはならないルールをいたく気に入り、のめり込んでいくのである。

 1929年に卒業すると同時に監督に就任し、さらに楕円球を追いかけ続けた。終戦直後に疎開先の新潟から上京し、真っ先にやったのは、グラウンドも含む2千坪の敷地に鍬を入れ耕し、麦を蒔き芋を植えることだ。疎開先から腹を空かして帰ってくる選手たちの為だった。

「球を持った相手を倒し、自分が球を持ったら目の前の相手を倒して突っ走るんだ」と、彼なりのラグビーの魅力を説きながら部員も集めた。これは北島が終生変わらず言い続けた持論でもある。だから、色紙には「前へ」と書く。

「『前へ』は明大ラグビー部のテーマであるとともに、僕自身の人生のテーマでもある。僕の体の中には後退という文字はない。あるのは前進のみ」

 ラグビーという競技はボールを前にパスしてはいけない。キックで前に陣地を獲る戦法やボールを横にパスしたりステップを踏んで立ちはだかる相手をかわして前に進める攻め方もあるが、北島はそれをよしとはしなかった。

「小手先の技術に頼って相手をかわして勝ったとしても、何度もそんなやり方で勝てるものじゃない。だったら、真っ正面からぶつかって行け。何度も弾き飛ばされるのはこちらの力が足りないからだ。力が上回って勝てたら、その時の力は絶対だ。かわすとか逃げるのはラグビーには禁物で、人生も同じだ」

 勝つためにはルールの範囲内で相手を欺いたり、磨きをかけた技を仕掛けるのは重要な戦法の一つであり、それが選手の能力として評価されるはずだが、

「試合になったら勝敗にこだわるな。勝つ時も当たり前なら負ける時も当たり前。そうなるだけの要素があるわけで、目先の勝敗にこだわって自分たちのプレーが疎かになることほどつまらんことはない。自慢じゃないが、僕は一度として選手に『勝て』と言ったことはない」

 北島はたとえ試合に負けても、日頃練習してきた成果を発揮できればよしとした。新入部員への最初の訓示である。

「とにかくボールを持ったらひたむきに前へ出ろ。そうしているうちにたくさんの失敗の中から正解を掴めるだろう」

 ここに教育者としての北島の一面をうかがい知ることができる。

「『急がば回れ』は体当たりのことだ」

 と、北島は「前へ」に対しては一歩も引かない。

「確かに、ステップの一つも覚えれば、楽に相手をかわせるかもしれない。しかし、ラグビーの本質はぶつかり合いだ。ぶつかり合いで勝てない奴がステップを覚えてもラグビーの本道からズレているような気がする。だいたい真っ直ぐ前に行けない奴は横にも走れないよ」

 社会人を破って日本一に輝き、新日鉄釜石では日本選手権7連覇を果たした北島の秘蔵っ子である松尾雄治(76年卒)は北島から「正義」を教えられたという。

「『正々堂々と戦え』『汚いことをして勝っても意味がない』と。全力プレーも口癖で、これは相手に対する敬意でもあり、『失礼のないように力を出し切れ』と」

 レフェリーの目の届かないところで意図的に反則を犯す選手がいる。一つの技術ともいえるが、北島がそれを見つけたらその場でその選手は引っ込められた。

「そんな奴はいざという時や苦しくなった時に、反則プレーでしか切り抜けようとしなくなるんだ」

“北島ラグビー”において反則スレスレのプレーはすべて反則とみなし、ここにフェアプレー=正義に対する北島の徹底ぶりがうかがわれる。

「僕はラグビーを通じて勝つための技術よりも、苦しみや悲しみを乗り越えることのできる精神力や、他人を思いやり認め合うことのできるノーサイドの精神を育てていきたいんだ」

 ***

 大学選手権出場をかけた大東文化大学との一戦のことだった。試合会場である明大グラウンドのある「八幡山」駅に爆発物が仕掛けられたとの脅迫電話に電車が一時止まった。その煽りを受けて大東文化大学は試合時間に遅れ、大会規定から不戦敗が下された。一方の明治の選手たちはすでにシャワーを浴び帰り支度にあったが、北島は「試合をするぞ!」と号令をかけた。この日のために必死に練習をしてきた相手に対する敬意であった。

 1957年、関西遠征の時だった。お屠蘇気分が抜けぬ新年早々、関西学院大学との試合は異様な雰囲気に包まれた。心ない地元のファンから「明治を倒せ」の野次まじりの声援が「踏め! 殴り倒せ! 蹴飛ばせ!」となり、果ては「殺せ!」にまでエスカレートした。

 北島は選手全員をベンチに引き揚げさせた。北島に試合進行の是非を決める権限はないが、ラグビーは紳士のスポーツであり、フェアプレーを信条にする硬骨漢の北島はとてもラグビーをする状況にないと判断したのである。

 北島が好きな言葉があった。

「百万人といえども我行かん」

 まさにあらゆる局面で北島の考えや行動を教えてくれる金言である。北島は愚直なまでに徹底した信念の人だったことがわかる。だが、選手に口喧しく指導することはほとんどなかった。教えるのは基本だけ。そして「前へ」の精神である。

「選手は将棋の駒ではなく生きた人間。監督の思った通りにさせようとすると、どうしても無理が出て選手も嫌になってくる。ああしろこうしろといえば、ある程度までは伸びるかもしれないが、せいぜいそこまで。だから自分で考えさせる」

 自宅は八幡山グラウンドに隣接する。公私の別はなかった。大所帯の部員の食事の面倒から一切合切を務めた愛妻みゆきさんが亡くなった(1978年)際、北島は生涯初めて涙したという。しかし、翌日にはグラウンドに立っていた。

 試合に出る選手は前夜、枕元にストッキングやジャージを入れたバッグを置いて寝た。「地震や火事になったらめいめいがそのバッグを持って逃げろ。そして試合場所へ行って必ず試合をしろ」と北島は試合に臨む姿勢を徹底させた。

 1996年5月28日、北島は呼吸不全により永眠した。享年95。

「六十何年もラグビーを見てて、勝った負けたと気にしていたら命がもたんよ」

 こんな言葉で長寿の秘訣をさらりとかわす北島だったが、人生の戦いには終止符を打った。勝ちも負けもない。ひたすら前へ進み続けてきた人生だった。

デイリー新潮編集部

2019年10月26日掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。