【特別講演】イスラエルの「政治」「安全保障」はどう変遷してきたか(中)

国際Foresight 2019年6月5日掲載

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 ここまで説明してきたような、常に国家の存亡がかかっているような状態では、国民はみんなびくびくしているわけです。私が最初にイスラエルに行ったのは1970年代なのですが、当時はバスやタクシーに乗ろうがスーパーマーケットに行こうが、ずっとラジオがつけっぱなしでした。それは、イスラエルをとりまく状況がどうなっているのかを、国民が常にわかっていなければならない、なぜなら、いつ動員がかけられるかわからないわけですから。私が訪れたのは、そうした非常に大きな社会的な緊張状況が続いていた最後の時期でもありました。

 しかしながらそれは、1967年の第3次中東戦争である程度緩和されます。

 当時、エジプトのガマール・アブドゥル=ナセル大統領がアラブ側の総指揮官になり、シナイ半島の停戦監視任務を遂行中の国連緊急軍を撤退させるなどして、あとはイスラエルに攻め込むだけという状況を作っていました。

 ところがそこにイスラエル側が「予防先制攻撃」を仕掛けて、アラブ側の航空戦力をまず潰すわけです。給油され、爆弾も積んだ飛行機を上から叩くわけですから、壊滅するわけですね。

 こうして制空権を完全に失ったアラブ側を、イスラエルはさらに攻撃します。結局わずか6日間で――これがまた意味を持つわけですが――圧倒的大勝利を収める。イスラエルは、1年間の交通事故死者よりも低い損耗率という結果だった。逆にアラブ側は、飛行機をまず潰された上に、航空支援のない状態で戦車から何から全部狙い撃ちにされるわけですから、大敗北です。

 結果として、図2の通り、元々のイスラエルの領土はここまで大きくなりました。シナイ半島をエジプトから、ゴラン高原をシリアから、それからエルサレムを含むヨルダン川西岸地区はヨルダンから取った。これで戦略的縦深、つまり相手が攻めてきた時に予備役を動員できる時間を稼げるようなバッファーを、ここで得るわけですね。これでちょっと余裕ができた、ということになったわけです。

「民族主義」と「民主主義」の相剋

 ところがここで、先に述べた民族主義と民主主義が最初のハレーションを起こします。

 この第3次中東戦争までは、イスラエルにおける非ユダヤ人と言う場合には、第1次中東戦争でイスラエルに残ったかもしくは逃げ遅れた人たちのことだったわけで、そういうイスラエル国民だけどもユダヤ人ではないという人にどう対応するかというのが国内問題だったんですね。ところが今度は、占領地に住んでいる非ユダヤの人々をどう扱うかが問題になってきたのです。

 この時、エルサレムはイスラエルが一方的に併合します。ガザも、一応抑えるのですが、ここについては、イスラエルは最初から最後まで自分のものではないと言い続けるんですね。ガザはそういう意味では、不満の巣窟です。エジプトもイスラエルも、自分たちのものだと言わない。結局ガザの人たちは、つい最近までレセパセという国連の難民証明しか持てなかったというようなことで、非常に大きな憤懣を抱える地域なわけですね。

 ゴラン高原も、イスラエルはシリアから占領したわけですから、和平プロセスの中では、返す相手はシリアだ、ということはわかっているんです。ところがヨルダン川西岸地区の場合、誰に返すのかという話が、ここでも出てくる。ヨルダンから奪ったのは間違いないのですが、そのヨルダンが占領していた時には、イギリスとパキスタン以外は誰もその占領を正当なものとして認めていない。ヨルダンの不法占領からイスラエルの不法占領に変わっただけだという認識がある。すると、和平プロセスで誰に返すんだという問題がずっとつきまとったわけです。

 これも後から出てきますが、これを何とか解消しようとしたのが、1993年のオスロ合意で、それ以降1994年にパレスチナ自治政府ができますから、このヨルダン川西岸地域を返す相手はパレスチナ自治政府だというフォーミュラ(公式)がいちおうできあがる。

 ガザにしてもヨルダン川西岸にしても、たくさんのパレスチナ人が住んでいます。ガザに対しては、イスラエルは「こんなところはいらない」と一方的に撤退するわけですね。

 今問題なのは、ヨルダン川西岸を併合するか、あるいは撤退するかということです。これは二者択一ではなく、その間にいろんなオプションがあるわけですけれども、ここを併合した場合の問題は、先に説明した民族主義と民主主義が真っ向から対立するわけです。

 併合して西岸地域の人たちをイスラエル国民として受け入れてしまうと、もともとイスラエルの中にいるパレスチナ人と合わせれば、ユダヤ人の数とパレスチナ人の数が拮抗してしまう。さらに出生率の違いなどを考慮すると、10年後20年後には人口が逆転するという予測が出ている。するとイスラエルは、ユダヤ人の民族国家ではなくなるわけです。ポピュレーションボム、人口爆弾というわけです。つまり、ヨルダン川西岸を併合してかつ民主主義であろうとすると、完全なバイナショナルステートになって、ユダヤ人のネイションステートではなくなる。

 かといって、併合してもパレスチナ人に市民権を与えなければどうなるか。これは民族主義ではあるでしょうが、民主主義ではなくなる。かつての南アフリカのようなアパルトヘイト型の差別国家になっていくという矛盾を抱え込むわけですから、これが大きな要因になって、1967年に占領したものの、その後現在までイスラエルは併合しないままでいるという状況になっているのです。

転機となった第4次中東戦争

 イスラエルは1967年の第3次中東戦争で大勝しましたが、そこで油断が生じました。この油断に乗じられて、イスラエルは1973年、エジプトとシリアから同時に奇襲を受けます。第4次中東戦争です。

 エジプトにはシナイ半島に、シリアにはゴラン高原に進攻されて、イスラエルはそれを叩きだすのに相当な損耗を強いられました。最終的には両方とも取りもどすわけですが、これが、私の時代区分でいう第2期への決定的な転機になりました。

 エジプトはこの戦争に勝ったと考え、その勝利を前提にして和平交渉に入り、最終的には1979年のエジプトとイスラエルの単独和平ができあがる。

 エジプトは当時、アンワル・サダトが大統領だったのですが、彼の頭の中には、イスラエルとは和平するしかないけれども、負けたままでやるとどうにもならない。だから自分たちが戦争に勝ったと言えるような状況を作ってから和平交渉を始める、というシナリオができていたのですね。

 結果として、エジプトとの和平が成立したのは、イスラエルも奇襲を蒙ったことで、エジプトとの間に和平ができるならその方がいい、という論法に向かったからなんですね。

 これによって、イスラエルは最大の正面となる南方国境の脅威から解放されます。エジプトはアラブの中では最大の軍事力を持ち、しかもイスラエルとの間に最も長い国境線がある。その脅威がなくなるわけですから、これはイスラエルにとって相当大きな負担の軽減になっていったわけです。

 それによって何が起こるのか。今度は北方を注視します。南方正面の脅威は排除できたわけで、残るは東のヨルダンと北のシリア・レバノンということになります。

 このうち、ヨルダンとの間はほとんどツーカーです。1967年の第3次中東戦争にヨルダンは参戦しましたが、その後イスラエルとの間に非常に大きなコミュニケーションの回路を持ち始めますから、イスラエルはこの時点においてヨルダンを脅威だとは思っていません。

 したがって残るはシリアとレバノン。レバノンは当時内戦中で、諸勢力が争って非常に厄介な事態になっていたのですが、その中のある勢力と結んで、レバノンとの間にも和平を作ってしまえ、と言う話になっていきます。ここで、イスラエルの大きな戦略的転換が行われました。

 それまでは、イスラエルの戦争は基本的には「選択肢のない戦争」でした。つまりイスラエルは戦争するしか局面を打開できないというのが国民のコンセンサスになって、はじめて戦争ができる。それは、予備役の動員がイスラエルの社会に何を強いるかということを考えると、当然のことです。国民みんなが考えて、これはもう戦争に行くしかないとか、行くしかなかったんだということをあとで認めてもらえるような状況で、戦争に突入していった、というようなことになるわけです。

「選択の余地なし」から「選択の結果」へ

 ところが、第2期の決定的転機となった1982年のレバノン戦争は、メナヘム・ベギンが首相でアリエル・シャロンが国防大臣の時代に起きましたが、ここで何が考えられたのか。イスラエルはグランドデザインというものを作ったのです。エジプトと和平が成立したから、次はレバノンと和平し、レバノン、イスラエル、エジプトの3国で和平関係を作ってシリアを孤立させるという戦略を考え、それを遂行するためにレバノンに入ったわけです。これはイスラエルが主体的に選択した結果としての戦争になり、建国以来のイスラエルの国是であった「選択の余地のない戦争」から、「選択の結果としての戦争」という方向に行った、ということになります。

 もっとも、レバノン戦争の結果はイスラエルにとって最悪のものになります。長期化し、徹底的に泥沼化していくわけですね。イスラエルにとってのベトナム、と言われるゆえんであります。最終的に撤退を図ったのが2000年で、18年間もレバノンで損耗を強いられたということになります。

 それと同時にわかってきたのが、軍事面での質的優位がいつまでも同じだけのギャップを担保できるものではない、ということでした。たとえばイスラエルの核に対してイラクが核を持とうとしている、あるいはイランが核を持とうとしていて、どちらかが本当に核兵器を持った瞬間にお互いに完全にパリティ、イーブンイーブンになってしまうわけです。通常戦力での質的優位がどれだけあろうとも、核の持ち合いになったら同じだという話になってしまうわけですから。

 同様のことが通常戦力の面でも出てきました。たとえば、今まではイスラエルが一線級の戦闘機を持っていて、アラブ側がプロペラ機しか持っていない時代などもあったわけです。圧倒的な差です。ところがアラブ側も二線級とか一・五線級であっってもそれなりのジェット機を持つようになると、その差は縮まってくる。

 このようにギャップが縮小していくと、質的優位がいつまでも同じだけのギャップを担保できるものではないということがだんだんとわかってきます。

 しかもその質的優位を保とうとすると、非常に大きな研究開発投資をずっと続けていかなければならず、これがかなり大きな負担になってしまう。

イラク「ミサイル発射」の衝撃

 そうした中で起こったのが、1990年から91年に続く湾岸戦争でした。

 湾岸戦争までのイスラエルの基本的な和平戦略は何かというと、要するにアラブ側をいっぺんに相手にせず、エジプトとイスラエルがやったような2国間で国境を決めるということを優先させる。というのも、この時のイスラエルの頭の中にある一番怖いことは奇襲で、それは相手と国境を接しているところからいきなりくるわけですから。

 すると、エジプトとはできた、あとはヨルダン、レバノン、シリアと個別に和平が成り立ったら、イスラエルの国境は全部安泰になり、安全が保障される。こういう発想だったわけです。

 しかし、湾岸戦争の時に何が起こったかというと、イラクからミサイルが飛んできた。39発だか41発だかいまだにわかりませんが、あれだけアメリカをはじめとする多国籍軍がしらみつぶしにつぶしていったにもかかわらず、生き残ったランチャーから、非常に古い型ではあるけれども、イスラエルにスカッドミサイルが飛んできた。迎撃兵器のペイトリオットが落としたとさかんに宣伝していましたが、実はあんまり落とせてはいません。

 もし、スカッドの弾頭に核や生物化学兵器と言った非通常兵器が積まれたらどうなんだ、ということになるわけです。あの時サダム・フセインが打ち込んだミサイルは政治的なメッセージですから、軍事的に何か狙ったものでもなければ、軍事的にそんな大きな効果があったわけでもない。けれども、ミサイルが着弾したということ自体が、イスラエルにとっては非常に大きなショックなんですね。

 つまり、それまでの質的優位だとか、航空優勢による絶対防空圏などによって、イスラエルに直接軍事的な脅威を与えるような存在などないだろうと考えていた。ところが旧式のミサイルが、国境を接していないイラクから飛んできて着弾してしまった。これは誰もが考え直さざるをえないわけです。そして結局、相手の脅威を完全に無力化するような実質的な優位というものは理論上不可能である、という考え方に達します。

 こうして、軍事的に安全が保障できないならば、政治的な安全保障を追求するしかなく、イスラエルの安全は政治的な枠組みを作ることによって達成しなければならないという考え方にシフトしていったのでしょう。マドリード和平会議、これにパレスチナを加えたオスロ合意と進むという、90年代のいわゆる和平プロセスの時代を迎えていくということになるわけです。(つづく)

池田明史
東洋英和女学院大学学長。1955年神奈川県生まれ、東北大学法学部を卒業後、アジア経済研究所に研究員として入所し、イスラエルをはじめとする中東現代政治分析を担当。イスラエル・ヘブライ大学トルーマン記念平和研究所客員研究員(1984~86年)、英オックスフォードセントアントニーズ校客員研究員(1995~96年)、トルーマン研究所客員教授(1995~96年)などを歴任して在外研究に従事。1997年に東洋英和女学院大学助教授、2001年同教授を経て、2014年から現職。著書に『イスラエルを知るための62章』(共著、明石書店)『途上国における軍・政治権力・市民社会』(共著、晃洋書房)『中東政治学』(共著、有斐閣)『帝国アメリカのイメージ』(共著、早稲田大学出版部)『イスラエル国家の諸問題』(編著、アジア経済研究所)など多数。