「いだてん」最低視聴率でクドカンも大ピンチ 大河で脚本家が降板したのは1回だけ

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脚本家に手を入れる?

「それゆえNHK会長は『視聴者のいろんな声も参考に、どうやったら分かりやすく伝えられるか頑張って作っているところです』と、軌道修正をにおわせたそうです。そうはいっても、脚本はNHKが三顧の礼をもって迎えたクドカン(宮藤官九郎)ですよ。展開が早いのは彼の持ち味ですし、NHKが今さら文句を言える筋合いではないはずです。ただし、歴代ワースト1位の大河『花燃ゆ』(平均視聴率12.0%:同率ワースト1位に『平清盛』)の時には、あまりの不人気ぶりに、放送が進むごとに脚本家がドンドン増えていくということもあった。さらに、脚本家を降ろしたこともあります。1974年の『勝海舟』です。放送がスタートして早々、主演の渡哲也さんが体調を崩して降板、代役に松方弘樹さんを立てるというドタバタの大河でしたが、脚本の倉本聰さんが台本の読み合わせにも参加することに、NHKのスタッフが、やり過ぎだと反発。さらにディレクターが勝手に彼の脚本を書き換えたことで、倉本さんも激怒。とどめに、週刊誌の倉本さんへのインタビュー記事が、告発記事のような形で出たものだから、スタッフからつるし上げられ辞めざるを得なくなったんです」(同)

 これについては、倉本氏と碓井広義氏の共著「ドラマへの遺言」(新潮新書)に詳しい。

〈決定打は女性週刊誌のインタビュー記事だ。「大河脚本家がNHK批判」と報じられ、記事を読んだスタッフから総攻撃を受ける。倉本はその足で羽田から札幌に飛んでしまった。
「1974年の6月ですね。記事が載った週刊誌『ヤングレディ』の発売日だったからよく覚えています(中略)。僕はまだ『勝海舟』をやめる気はなくて、札幌から台本を送ろうと思っていたんですよ。
 ただホン読みにはもう出ないと伝えました。それから僕がどこにいるかも教えないと。FAXのない時代で、東京にいるカミさんに生原稿を送って。事務所はなかったし、秘書もいなかったから。でも今度はその届け方が気に入らないわけですよ」
 世間では、大河を降りて北海道へ飛んだという話になっている。
「あ、そうですかね。あの後、2カ月くらいは書いていた(後略)」
 では、その時点では降りていなかったことになる。
「降りてないです」
 正式に「俺は降りるよ」とNHKに言ったわけではなかった。貴重な証言だ。
「でもね、NHKがもう代役の作家を立ててるって話は聞きました。誰だっけな。僕、名前覚えてないんだけど」
 代役となったのは中沢昭二という脚本家だった。札幌に来てからも『勝海舟』を書いていたにもかかわらず、倉本は引導を渡されたかたちだ。
「というか、病気しちゃうんです。肺炎を起こして東京の病院に入院ですよ。札幌じゃ、ひとりで飲み歩いてたからなあ。
 結局NHKからは、病気降板という形で大河を降りたことにしましょうという話がありました。制作側と喧嘩したのが6月ですよね。でもそのあと9月くらいまでは書いていたんです」〉

 大河を降板した倉本氏だが、「勝海舟」が放送中の10月にスタートする「6羽のカモメ」(フジテレビ系)で早くも復帰。ただし、NHKが発表した“病気降板”を気遣い、別のペンネームを使ったという。

 クドカンが病気降板というわけにはいくまい。早くも万事休すということか。どうする、NHK!

週刊新潮WEB取材班

2019年5月12日掲載

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