南相馬「大悲山の石仏」を守る「保存会会長」の「原発事故」と「いま」

社会Foresight 2018年11月24日掲載

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 1000年以上前の知られざる磨崖仏(まがいぶつ)群が福島県南相馬市にある。

 一昨年、東京電力福島第1原子力発電所の事故による避難指示が解除された小高区の泉沢地区。福島県内の多くの被災地と異なり、大半の世帯が帰還し、磨崖仏群の保存会の活動に集う。

 元原発作業員、石井光明さん(71)の家には孫娘も生まれ、「保存会の長年の絆が、離散を乗り越えて集落をよみがえらせた」と語る。

大悲山の薬師如来

 10月半ばの日曜朝、小高区を訪ねた。福島第1原発に近い同県浪江町に隣接し、事故直後に警戒区域(原発から20キロ圏)となり、全住民が避難を余儀なくされた。旧相馬中村藩の時代から商人町として栄え、2011年3月の原発事故前には1万2842人が暮らした。2016年7月に避難指示が解除されたが、登録人口は8313人に激減し、そのうち実際に帰還した住民はほぼ3人に1人の2921人(9月30日現在)。半数が60代以上だ。

 JR小高駅から延びる目抜き通りなど中心部には、シャッター街の風景に解体された店や家屋跡の空地が広がる。小高商工会の290事業所のうち地元に戻ったのは建設業など1割弱で、食料や日用品の店は乏しい。住民の定住を助ける公設民営のスーパーや、新たな商業施設や広場などを配する「復興拠点」エリアの整備を、市が急いでいるさなかだ。

 人けのない小高の街からJR常磐線沿いの道を南下すると、純農村の泉沢集落に至る。目指す山あいの公園に、作業着姿の10人ほどの男衆がいた。こんもりと小高い森には「大悲山(だいひさん)観音堂」がある。参道の周囲のあちこちで電動草刈り機がうなりを上げ、積もった落ち葉が集められていた。地元住民の「大悲山三尊保存会」の共同作業だ。

 大悲山とは、この辺りに多くの堂塔と修行道場を営んだと伝わる「大悲山慈徳寺」。平安初期の大同年間(806~810)に奈良の高僧・徳一が奥州に仏教を広めた際、この地に石仏を彫って一大霊場を開いた、との言い伝えもある。

 寺は南北朝時代の1354年に焼失した(後に再建されたが廃寺に)が、信仰の地の高名さは「大悲山と大蛇」という伝説にうかがえる。玉都という盲目の僧が祈りのため石仏の岩窟にこもると、大蛇が現れて付近一帯を湖に変えると脅し、僧が当時の実在の領主、相馬光胤に知らせて大蛇退治が行われたという話だ。 観音堂など周囲3カ所に残る石仏群は今、国指定史跡「大悲山の石仏」として親しまれる重要な歴史遺産になっている。

 草刈り作業が終わり、三尊保存会の会長の石井さんが「薬師堂に行ってみよう」と誘ってくれた。参道は急な石段で、途中に「大杉」がある。樹高約45メートル、しめ縄の巻かれた幹まわりが約8メートルあり、浜通り地方で最も太い杉だ。境内には倒木の危険があるとして伐採された別の巨木杉の切り株が残り、「年輪を数えたら1000年と分かった」。

 急な石段の上に古い薬師堂があり、中にはガラス戸の仕切り。石井さんが施錠を外して真っ暗な内部の電灯をともすと、目の前に岩窟が広がり、見上げるような磨崖仏が浮かんだ。

 凝灰質砂岩がくりぬかれた4体の薬師如来だ。高さ約5.5メートル。長い年月の風化で表情や模様はかなり失われているが、かつては極彩色だったと思われる名残の朱色が残る。庶民の病苦救済のための無数の祈りとともに、仏たちは時を超えて息づいている。

保存会の変わらぬ役目

 筆者が大悲山を初めて訪ねたのは、原発事故から2年後の2013年3月。筆者の恩師にあたる民俗学者が編纂に携わった『おだかの歴史』(南相馬市刊)を読み、磨崖仏の存在を知って驚いたことが機縁だった。彼は震災前に急逝していた。当時、南相馬市の原町区などで避難生活を送っていた石井さんと、保存会の仲間の島田滋さん(71)に連絡を取り、現地に案内してもらった。 

 泉沢地区は1つの行政区で、そのうち40世帯が保存会を組織し、上・中・下の3班が毎月交代で、草刈りなどの「人足仕事」(共同作業)をしてきた。

 大悲山には薬師如来のほか、千手観音、阿弥陀の磨崖仏があり、前者は東日本大震災の地震でお堂が崩壊。高さ9メートルの磨崖仏の風化も進んでいた。後者は剥落がひどく、今は原形も分からない。

「40世帯のうち26世帯が市内や相馬市で仮住まいし、残りの世帯は県外に避難中」と石井さんらは語り、「住民が不在でも大悲山を荒らすまい」と2人で草刈り、清掃に通っていた。

 その折に聞いたのが、毎年2月8日恒例だった「初薬師詣」のにぎわい。大悲山を管理する小高の真言宗金性寺をはじめ、浜通り各地から同宗豊山派の住職ら約50人が薬師堂に集い、盛大に護摩をたいて1年の平安を祈とうするという。保存会の大切な役目は、その日に奉納する「大杉」のしめ縄作りだった。地元産の稲わら70束を農家が持ち寄り、男衆が9メートルの長さに編んだ。保存会が結成されたのが1928(昭和3)年。初薬師詣はもっと昔から営まれていたといわれ、それらの伝統行事は原発事故と避難生活によって途切れていた。

3年途絶えた「しめ縄作り」

 あれから5年、薬師堂を見終えて鍵を掛けた石井さんが語った。「避難指示が解除された一昨年から、保存会の仲間たちが泉沢に戻ってきた。今は36世帯になる。小高区のどの行政区よりも帰還率が高いそうだ」「原発事故の直後、集落のうちの周囲で放射線量は1.5(マイクロシーベルト毎時)くらいあった。でも、除染された後の今は0.11ほどに下がった」(国が定める放射線の被ばく限度量は年間1ミリシーベルト=0.23マイクロシーベルト毎時)。

 草刈りの後、保存会の人たちは薬師堂の下の参道脇にある寺務所に集まっていた。入ってみると、中は稲わらで埋まっていた。来年2月8日に奉納する「大杉」のしめ縄作りの材料だ。山と積まれた稲わらを干そうと、畳いっぱいに広げているところだった。

「遠藤さんが持ってきてくれたんだ」と、石井さんに紹介された。遠藤孝さん(80)は集落に帰還した農家。他の農家が避難中に重ねた年齢や原発事故の風評から営農を諦める中、唯一、稲作を再開した人だ。「山形や神奈川の避難先、南相馬の仮設住宅を転々とした。やっぱり泉沢はいい。わが家と親戚の食べる分だけでもコメを作ってみようと、田んぼをまた始めたんだ。震災前は3.4ヘクタールあったが、今は70アール(水田7枚分)ばかりだよ」

 石井さんによると、しめ縄作りは原発事故の翌2012年から14年まで、稲わらを確保することも住民が避難先から集うこともできなかったため、中断。「2015年の秋、農協勤めの住民の縁で隣の相馬市の農協から稲わらを調達し、やっと再開できた。地元の稲わらだけを使う決まりがあるが、やむを得なかった。離れ離れだった仲間に呼び掛け、しめ縄作りにまた集まるきっかけにもなった。2年前からは遠藤さんが稲わらを提供してくれて、作業のにぎわいも戻った」 

「津波対策なんて誰も考えていなかった」

 石井さんは東日本大震災の3年前まで、泉沢から国道6号を南に30分ほど行く福島第1原発で働いていた。

「40歳から22年間、双葉町にあった東京電力の協力会社に勤め、原発の保守点検の仕事をしていた。このあたりではごく普通の勤め先だった。定期点検などで原子炉建屋の清掃作業もやった。4、5人で班を組み、スコッチブライト(工業用研磨剤)と市販の洗剤で汚れを落としたり、フル装備の防護服で原子炉の炉心にも入って除染をしたり。一番汚染がひどい『C、D』レベルの時は、放射線量が最高で0.80(マイクロシーベルト毎時)くらいだったが、作業は30~40分、往復の移動時間を除けば20分くらいでやらねばならなかった」

 当時は女川(宮城)、志賀(石川)、大飯(福井)など遠方の原発にも赴いたという。

「近隣の作業員を20人くらいを引率し、班長として出張したよ。長い時で3カ月くらい家を空けて。皆、1日の仕事が終われば飲みたいし、あとはパチンコくらいしか楽しみがなかった。家族に会いたくても、自分だけが帰るわけにはいかなかったな」

 60歳で定年を迎えた後も2年間現場に残り、2008年に仕事を辞めた。

「もう3年、勤めを延長することもできたし、そう勧められもしたんだが、辞めた。もし続けていたら当然、原発事故に巻き込まれていた。津波で全電源喪失という、あの事故を知った時は正直、『そんなことがあっていいのか?』と不思議だった。第1原発には、地震に備えた耐震設備はあった。でも、津波対策なんて、俺がいた当時の現場では誰も考えていなかった。津波が来たらどうする、なんて頭にもなかったな」

 大震災の当日は、妻の一枝さん(66)と泉沢の自宅にいた。避難したのは2011年3月15日の午後。「地震で家中のものがぐちゃぐちゃに散乱し、仏壇が吹っ飛び、後片付けをやっていた。11日の大地震で一時停電になった後、テレビで翌12日の(1号機原子炉建屋の)爆発を知った。それでも、原発の内部のことをよく知っているつもりになっていて、『まさか、最悪の事態まではいくまい』という安全神話が自分にもあったんだな。15日までとどまったが、また(2号機圧力抑制室付近の)爆発があり、家族3人暮らしで年頃の娘もいるので、もういかんと思った。いったん原町に避難した後、一枝のおばさんが農家をしている白石市(宮城)に移り、そこで草刈りを手伝ったり、ボランティア作業をしたり。原町の借り上げ住宅が10月に決まって、戻ってきたんだ」

生きていた古い信仰

 石井さんが震災後に初めて大悲山を訪れたのは、2012年10月。「その年の4月に警戒区域が解かれて小高区に入れるようになった。泉沢の自宅には何度も戻っていたが、自宅が地震でひどく傷んでしまい、他のことを考える余裕もなかった。復興だとか行く末は見えず、誰もが自分の家族のことだけで必死だった」

 しばらくぶりの大悲山で、観音堂の崩壊を目の当たりにして胸を痛めたが、石仏のある薬師堂で思いもしない事実を知った。

「お堂に残っていた来訪者向けの解説チラシが1部もなくなっており、記帳ノートに新しい参拝者の名前があった」。小高区への立ち入りが自由になった春から、半年ほどで約150人。原発事故の被災地への不安も風評も当時は強く、訪れる人があるなどと石井さんは想像してもいなかったが、1000年の古い信仰は生きていた。安心も安全も見失われた世情だったゆえか。

「それから震災前のように月に1度、境内の掃除を始めた。荒らしては参拝客を迎えられない。俺は退職後の身だし、同級生で仲のいい島田さんと一緒に通って。掃除の折、観光バスの団体客の来訪も見るようになり、大悲山を守っていかなくては、という励ましと希望になった」

 石井さんの古い自宅は震災後、2階建ての家全体がゆがみ、無数のひび割れが走り、次の大きな揺れで倒壊する危険もあった。

仲間の島田さんの家はもっと悲惨な状態で、屋根に開いた大穴から雨が降り込み、腐った床からササや雑草が伸びて繁茂していた。島田さんは当時、「避難中に5年近くも雨漏りしていたから。修理どころではなく、家財道具も運び出せなかった」と語った。大きな稲作農家だったが、営農の再開も諦めていた。「家族は、もう戻らないと言っている。泉沢を離れて市内に新しい家を造ろう、と。俺1人だけ頑張ってもどうしようもない」

 その後、2016年3月の再訪時には、2人の自宅は解体されていた。再び集落に新しい家々が建ち、住民の声が戻る未来など、この時は想像できなかった。

娘家族と暮らす石井さん

「去年の10月8日に、原町の借り上げ住宅から越してきたんだ」。今回の取材で、大悲山からの帰路に立ち寄った石井さんの新居。2016年7月に小高区の避難指示が解除され、翌年の7月下旬にはベージュ色でモダンな2階建て、40坪の家が完成していた。「若いころに苦労して家を建て、家族の古里にした場所だ。帰還しないなんていう選択肢はなかった」

 石井さんはもともと泉沢の人でなく、旧小高町の駅前にあった指物大工の家に5人兄弟の長男として生まれた。「金持ちの子しか高校に上がれなかった時代」で、中学を出ると職業訓練校で木工を習得し、17歳で「金の卵」として上京。

 都内、埼玉の木工の会社を経て、横浜にあった日東樹脂工業という会社で働いた。24歳でいったん辞めて帰省後、世話になった前の職場の労務部長の紹介で川崎市の下請け企業に入り、当時売れていた家具調ステレオのカバーを作った。そこの社長の言葉が、若い石井さんを奮起させたという。「石井くん。君は長男なのだから、お金をためて、故郷に立派な家を建てるんだぞ。頑張れ」

 懸命に働いた石井さんは30歳で実家に戻り、小高町にあった籐製品作りの会社に再就職し、縁あって泉沢に両親と暮らす家を建てた。2年後に友人の紹介で、原町の農家の娘だった一枝さんと出会い結婚した。初めて一家の主になった思い出と愛着の土地である。

 一枝さんはこう話す。「(夫は)原発の仕事で全国を歩き、何カ月も家にいなかったけど、心配というより、生活が懸かっていた。私は縫製工場で働きながら、おじいちゃん、おばあちゃんを世話し、娘2人を育てた。大悲山の草刈りなど集落の人足仕事にも代わりに出た。大変だったけれど、私もこの家に戻れてよかった。新しい家族と暮らしていけるもの」

 新居は2世代住宅だ。1階には広い畳の間があり、次女の千明さん(33)が、2歳になったばかりの長女・美咲ちゃんと遊んでいる。避難中だった3年前、今も勤める市内の電機部品会社で職場結婚した夫、舘山裕司さん(55)と3人家族で、両親と同居している。

 帰還者の大半が定年後の60~70代の泉沢で、唯一の若い家族であり、幼子だ。「両親が泉沢に帰ると言っていたので、私も迷わず決めていた」と千明さん。周りの知人からは、「本当に帰るの」「危なくないの」と心配された。大熊町にあった母校の高校の同級生らは県外に避難したまま、1人も帰ってきていないそうだ。

「でも、父が草刈り機を買って泉沢に通い続けるのを見て、けがを心配しながら、すごいな、立派だなと思った。美咲が生まれ、一緒に暮らせるのを両親は喜んでくれたし、集落の人たちも皆で声を掛けてくれる」

圧巻の「十一面千手観音」

 広島学院一同、横浜市鶴見区、静岡県牧之原市、名古屋市緑区、京都府宇治市、長崎市、仙台市泉区、北海道旭川市……。

 大悲山の阿弥陀堂に置かれた記帳ノートに連なる参拝者の住所だった。ノートの隣には、石井さんが南相馬市教育委員会から預かってくる『国指定史跡 大悲山の石仏』の解説チラシが積まれている。なくなると1000部ずつ補給しており、「この1年で、全国のあちこちから2000人は参拝に来ている」と言う。「うれしいよ。海外の人の名前もノートに散見されるんだ。どこで紹介されているのか。昔から大悲山を信仰する人だけでなく、だんだんと観光の客が増えるなら、地元の復興にもつながっていく」

 薬師堂から車で5分ほどの小高い森に、観音堂がある。本来なら大悲山の3つの信仰の場所をつなぐ山中の道をたどるべきだが、震災後は手つかずだという。参道の坂を上ると、黄土色の太い円柱群で支えられた、大きな覆屋(おおいや)が見えた。平安時代の様式を模した建物は2年前の春に完成したばかり。

「震災の大地震で古い覆屋が崩れ落ち、山のような残骸が2年近く放置されていた。悲しかったが、それを機に市の教育委員会が恒久保存に乗り出してくれたんだ」。覆屋の高い屋根をくぐると、息をのむような光景がある。

 阿弥陀堂の石仏と同じく白い凝灰質砂岩の絶壁。そこに巨大な磨崖仏が浮き彫りになっている。高さ約9メートルの「十一面千手観音」だ。

 インドやシルクロードの仏像の面影さえ漂わせる観音の顔を真ん中に、左右に仏具を載せたたくさんの手が伸び、頭上に11の小観音と化仏(けぶつ・小さな仏)が彫られている。顔から下の胴とハスの台座は風化で消えたが、磨崖仏としては国内最大級であっただろう姿は圧倒的で、表現の言葉も失う。作者の名も伝わらぬほどの遠い歳月を超えて存在をとどめ、大震災を生き延びた磨崖仏そのものが奇跡のようだ。

 福島第1原発事故後の全住民の避難という苦境の下でも、「大悲山を守り、後世に残したい」という石井さんら泉沢の人々の思いが語られた気がした。

寺島英弥
ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。