〈太平洋戦争は“架空な歴史”“勝算なき戦争”〉赤い宮様「三笠宮殿下」に関する識者の見方

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 明治以降の皇族方では最長老の「三笠宮崇仁親王殿下」においては、過去の数々の”斬新なお言葉”で知られている。

 お印にちなんだコードネーム“若杉参謀”として南京に赴任されていた殿下は、そのご経験に基づき、44年1月に将校らを前に講話を行われた。「支那事変に対する日本人としての内省」という文書にまとめられたその内容は、軍紀の乱れや現地軍の独走を激しく指弾するものだった。

■南京虐殺への言及

 南京で見聞きした日本軍の行状についても、56年に上梓された『帝王と墓と民衆』(光文社)に付された『わが思い出の記』にてこう嘆かれている。

〈罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった〉

〈聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか〉

 いわゆる「南京虐殺」についても、

〈最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係はありません〉(「THIS IS 読売」94年8月号)

 と、言及される。

■紀元節反対

 また、GHQによって廃止された祝日・紀元節を復活させようとの気運が高まった時期には、“紀元節に科学的根拠なし”との論陣を張る。

「文藝春秋」59年1月号に発表した論文〈紀元節についての私の信念〉によれば、

〈昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、また勝算なき戦争――大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのである。〉

 さらには、中国側が日本軍の残虐行為を映画化した『勝利行進曲』なる作を、昭和天皇にお見せしたというのだから驚きである。

〈その映画を持っていき、昭和天皇にもお見せしたことがあります。もちろん中国が作った映画ですから、宣伝の部分も多いでしょうが、多くの部分は実際に行われた残虐行為だっただろうと私は考えています〉(前出・「THIS IS 読売」)

 12月2日に100歳を迎えられた殿下。これらのご意見を、識者はどう読み解くか。

■大変な記憶力

 実際に三笠宮さまを取材したことのある皇室ジャーナリストの久能靖氏は、

「30年も前、殿下の研究室にお邪魔したことがあります。幼少時代に過ごされた御用邸のお話をされた時には、敷地内の細部まで正確に回想なさるなど、さすが学者らしく、大変な記憶力に驚きました」

 そう振り返りながら、

「一連のご発言は、当時の情勢では宮様でなければ命を落としかねないような内容で、勇気がおありだったのでしょう。お年が14歳離れている昭和天皇にとっても、殿下からもたらされる中国の情報は、仮にそのままは受け入れられないとしても、実際に軍に籍を置く弟宮からの貴重なお話ですから、お耳を傾ける価値がおありだったと思います」

 一方で現代史家の秦郁彦氏は、こう推察する。

「当時の中国で軍紀の乱れがあったのは事実で、参謀である殿下の耳に入るほど不祥事が頻発していたということです。それでも、主たる敵はあくまで米国で、広い視点から戦争全体を考えた時、いつまでも中国戦線が終わらず大軍が大陸に残ったままで勝てるのか、という思いが殿下にはあったはず。軍紀が乱れれば中国の民心を掌握できず、戦局に悪影響が出かねない。そんな懸念からなされた講話なのでは、と思います」

 また、戦後においても、

「紀元節についても学者としてのお立場から発言されたのでしょうが、国の記念日だから根拠が重要だという主張と、根拠が不十分でもよいのではという2つの論陣があり、いずれの立場で発言してもそれ自体が政治問題となってしまう内容でした。たとえ事実であっても、皇族のご発言は必ずどちらかの陣営から利用されてしまうのです」(同)

■100歳を迎えた暁には……

 時に“赤い宮様”と呼ばれながらも信念を貫かれ、3男2女に恵まれた三笠宮さま。が、02年には三男の高円宮さまが急逝、12年には長男の寛仁親王、その2年後には次男の桂宮さまが続けて薨去されてしまう。

 皇室ジャーナリストの神田秀一氏が明かす。

「10年前、90歳のお誕生日を迎えられた際には、ご家族が集まってお祝いが催されました。殿下はそれを大層お喜びになり、100歳を迎えた暁には、寛仁親王殿下が中心となり、より盛大にお祝いしようというお話が、お身内で出ていたのですが……」

 公私ともども、万感胸に迫る一世紀を過ごされてきたのである。

「特集 『三笠宮殿下』百寿祝いで思い出す『紀元節反対』と『南京虐殺言及』」

週刊新潮 2015年12月3日号掲載

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