「日航機」御巣鷹山墜落から30年 搭乗できなかった男達の後半生

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 昭和60年、「日航機」が御巣鷹山に墜落して520人が犠牲となった。その一方で搭乗を回避し、「死神」から間一髪で逃れた人々がいる。

 そのなかの1人に、ITジャーナリストの神田敏晶(53)もいた。羽田空港で墜落したJAL123便の空席待ちの列に並んでいた彼は、当時ワイン・マーケティング会社の社員だった。

「社会人になって初めてのボーナスをもらったので、少し奮発して飛行機で帰省しようと思ったんです」

 当時の新幹線は東京-新大阪間が1万2100円(自由席)なのに対し、飛行機は羽田-伊丹間1万5600円と3500円割高だった。

 しかし思い立ったはいいがチケットさえ取っておらず、空港についた当日16時前後はJAL17時発、ANA18時発、JAL18時発(123便)はすべて満席だった。

 学生時代はバックパックで世界中を旅していたので、3便もキャンセルを待てば乗れると高をくくっていた。しかし空席待ち整理番号7番をもっていた神田を「死神」は見逃し、123便は飛び立った。

「ついてないなあと思いましたね。計画性のない自分を呪うというか」

 そう語る神田だが、まさにその計画性のなさこそが神田を救った。結局新幹線で帰省した神田は翌日昼、テレビを見てはじめて事故に気付く。

「ショックで、ずっとテレビをみていました。母が“よかったなあ”と言っていたのを覚えています」

■死神を何度も回避した

 不思議なことに神田は、その後何度か大きな災害や事件に巻き込まれたりしながらも、事なきを得ていた。

 平成6年の米ロサンゼルスで起きたノースリッジ地震のときは、フリーウェイが落ちるほんの30分前にそこを走行していた。その翌年の阪神淡路大震災のときは神戸市におり、自宅は半壊したが命からがら逃げ出した。さらに平成13年、米国同時多発テロ事件が起きた日には、取材場所として、ワールド・トレードセンターを打診されていた。

「考えてみたら、こうした事故で命を落とされた約1万人の犠牲者の代わりに生かされているんだなと。その人たちの分まで生きなければ……。そう思ってこれまで生きてきたのです」

■乗れなくて“残念やなあ”

 その神田より前の、空席待ち整理番号5番を持ちチェックイン・ブースで並んでいたのが釣りライターの大西満(75)だ。
 前橋市の利根川で行われていた釣りの講習会のあと、お客さんの釣り竿の修理に時間をとられ、予定より30分遅く空港に到着した。妻には18時頃の便で帰ると伝えていたため、空席待ちの列に並ぶことにした。

 大西は自分の前でチエックインが締めきられた瞬間のことを今でも鮮明に覚えている、と語る。

「僕のすぐ前の人で、ぎりぎりで乗れなかった男性と顔を見合わせて苦笑いをしたんです。“残念やなあ”と言い合って。50代の丸顔の人だったと思います」

 もし釣り竿の修理をしていなかったら、大西は乗ってしまっていたのかもしれない。

 大西もまた「助けられた命なんですよ」と語る。

■生かされた命をどう生きるか

 8月11日発売の「週刊新潮 3000号記念別冊『黄金の昭和』探訪」に掲載の「特集 『死神』から間一髪逃れた『キャンセル・リスト』の後半生」ではこの他にも、JAL123便を回避した、シャープの元副社長佐々木正(100)やフジテレビのアナウンサーだった逸見政孝一家4人、医師の脇山博之(56)ら間一髪で助かった当事者たちが、死神から逃れられたその理由を明かしている。その誰もが問わず語りに「生かされた命」という言葉を口にした。

 日航機墜落事故で消えた、生きたくても生きられなかった520人の命。それをどこかに感じながら、それぞれの人生を生きている姿が同記事では伝えられている。

週刊新潮 3000号記念別冊『黄金の昭和』探訪掲載

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