政権を内から見た言論人の「悲哀」/『官邸危機』
「わたしがリアル・ポリティクスに関わった体験は悲哀のみをもたらしたわけではなかった」と、菅直人内閣で内閣官房参与をつとめた評論家の松本健一は本書の「エピローグ 政治と思想の間」で心中を吐露している。
民主党政権の主要メンバーは、菅直人を筆頭に政権回顧本を出版して、「宴のあと」を総括した。政界サバイバルのための弁明には食指が動かなかったが、この本は違う。民主党内閣のスペシャルアドバイザーとして、東アジア外交を担当した言論人の「悲哀」ならば知りたいではないか。
松本は自らの官邸入りを、「義を見てせざるは勇なきなり」と「論語」の一節で説明している。松本の就任は尖閣での中国漁船の海上保安庁巡視船への体当たり事件で、日中関係が騒然としていた時期である。東大時代からの古い友人である「影の総理」仙谷由人官房長官(当時)の苦境を助けるという当座の役割がある(尖閣問題では、仙谷から深夜の長電話が度々かかっていた。仙谷は「私の友人に松本健一という思想家がいまして」と公言し、松本を信頼していた。二人は政治と文学に興味をもち、役人にはならないと決めていた少数派の東大生だった)。そればかりではない。この際、「『ネーション(民族・国家・国民)』のためにじぶんの知見を活かさなければ、何でこれまで歴史研究をしてきたのか」という大志が松本には潜んでいた。
日本の歴史で外交の役割を果たした知識人としては、室町時代の五山の僧侶たちや、幕末の佐久間象山がすぐに思い浮かぶ。象山についてなら、松本は長い評伝を書いている。松本はペリー来航から維新への自己変革を「第一の開国」、敗戦と民主化を「第二の開国」ととらえ、冷戦構造が崩壊した後を「第三の開国」期とし、アジア重視の外交、国民みずからによる憲法の作り直し、自衛隊の存在に整合性を、「海ゆかば」を国歌になどと唱えていた(ちなみに第一次安倍内閣の教育基本法改正では、第一章に「国と郷土を愛する」と「郷土」が謳いこまれたが、これは松本の主張を公明党の太田昭宏が受け入れた結果だったという)。
松本の年来の持論は、政権が視野に入ってきた時期の民主党の政治家たちに勉強会や日本近現代史の連続講義で伝えられていた。勉強会のことを松本は主唱者の名をとって「仙谷ゼミ」と勝手に呼んでいた。前原、枝野、細野、古川、小宮山、蓮舫などの各大臣は、いわば「仙谷ゼミ」の教え子たちである。
政治が変わるという期待感は、二大政党による「政権交代」という民意をもたらした。官僚主導から政治主導へ、対米依存からアジア重視へ。指南役から政権の内部へ。松本が自らの経綸を試そうとしたことは当然ともいえる。
思想(言論)が政治(リアル・ポリティクス、外交)に強くはたらきかけるということは、見方を変えれば、思想が政治によって試されるというきびしい試練でもある。最初の試練はすぐに襲ってきた。「仙谷さんパー」の名で投稿された、一海上保安官による尖閣映像の公開という「憂国」の叛乱だった。
二・二六の青年将校の蹶起した心情を評価し、彼らを容認したロマン主義的革命家・北一輝に松本は惹かれてきた。北一輝について、安倍晋三のこんな挿話が本書で披露されている。講演に呼ばれて安倍から、「高校生のとき松本さんの『北一輝論』を読んで以来の愛読者ですよ」と挨拶され、松本は喜ぶ。岸信介は東京帝大生の時、北の愛読者だった。その孫が自分の『北一輝論』の愛読者であることに、「妙に納得してしまった」と。そんな自分と、彼らを「反乱軍」と呼んで鎮圧を号令した昭和天皇を「正しく、理性のある政治的判断」と評価する自分に、思想的整合性はあるのか。
「その矛盾と同じ問題が、事態は小なりといえども、尖閣ビデオ映像流出事件にも潜んでいた。それを一言で言えば、国家統治の思想の有無だろうか」
松本による民主党政権の評価が本書の中に出てくる。鳩山・菅・野田は「何かの目的を実現するために権力を手にしたわけではなかった」。統一した理念なき烏合の集団であり、鳩山は「アジア重視」、菅は「政治主導」を「愚直に、いわば何ら現実的手続きと官僚の配置も行わずに追求して、結局挫折したのである」。権力と「暴力装置」で理想とする「国家統治を行う目的をもっていた民主党政治家がいるとすれば、仙谷由人があるだけだったろう」。仙谷と松本が学生時代に愛読したマックス・ヴェーバーの『職業としての政治』にある「責任倫理」を解する政治家が、なんと不足していたかということであろう。
日中関係に風穴を開ける試みとしては、「日中連携の原点」である辛亥革命百周年に向けての地ならしがあった。北一輝、宮崎滔天、犬養毅、頭山満など辛亥革命に協力した日本人を歴史の中から呼び戻し、日中友好の初発の志を確認しようという、歴史をよく知る松本らしい発想である。しかし、それも菅総理のドタキャンによって、出鼻を挫かれる。そうこうしているうちに、3・11が襲う。
内閣官房参与としての腕が十分に揮えなかったことは、松本にとって、むしろ幸運だったのではないか。本書を読みおえて、私はそんな感想をもった。巧言令色、夜郎自大、なんでもありの中国を相手に東アジア外交を構築するには、松本はあまりに「善き人」でありすぎるのではないか、と。退任の日、仙谷は「大変だったろうけれど、人間観察のよい機会になったろう」と旧友を慰労した。