日本のモノづくりが世界の富裕層を魅了 困難を乗り越えホンダジェットを開発した男達

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 2月12日NHK総合の報道番組『特報首都圏』でホンダジェットが特集された。

 ホンダジェットとは、自動車メーカーであるホンダが開発した小型ジェット機である。

 昨年12月に販売を始めるやいなや、1機5億円という値段にも拘わらず、世界中の富裕層から注文が殺到。そのスタイリッシュな機体デザインは賞賛を持って迎えられ、発売1カ月で100件以上の予約が入ったことは、日本のみならず世界で大きな話題になった。

 日本のモノづくりにとっては、久々の「明るい話題」と言えよう。

 だが、販売に至るまでにはなんと30年もの時間を要している。

嘲笑されたコンセプト

 ホンダジェットは主翼の上部にエンジンを配置するという前代未聞のコンセプトにチャレンジしているが、航空機産業は当初、そんなバカな飛行機は見たことがないと嘲笑し、開発は絶対に上手くいかないと思われていた。

 開発までの悪戦苦闘が綴られた『ホンダジェット 開発リーダーが語る30年の全軌跡』(前間孝則著・新潮社刊)では、理論計算を実証するため、ボーイング社の施設を借りて風洞実験をしたときの様子を当時の開発リーダー藤野道格(現・ホンダエアクラフトカンパニー社長)の言葉として、こう活写している。

「最初、ボーイングの技術者たちはわれわれのコンセプトを見て馬鹿にしているような様子で『まあ、やってやるか』といった受け止め方でした。でも、試験を進めていく中でデータが出てくるに従い、その態度が変わってきた。彼らも認めざるを得なくなりました」

 それはまさに、機体もエンジンも一つの会社が作って、自動車のように販売する──ボーイングがそれまで考えたこともない「いつかは飛行機を自社で開発したい」という創業者・本田宗一郎の夢が現実にならんとする第一歩だった。

 本田宗一郎が「いよいよ私どもの会社でも飛行機を開発しようと思っていますが、この飛行機はだれにも乗れる優しい操縦で、値段が安い飛行機でございます」と全社員に語りかけたのは、昭和37(1962)年6月のこと。

 だが、実際にホンダが小型飛行機の開発に乗り出したのは1980年代の半ばであった。30年前、社内にも極秘で始まった研究開発は、当然のことながら、苦難の連続だったという。

開発を支えた「フラットな組織」

 バブル崩壊による業績悪化やトップ交代などでプロジェクトは幾度となく廃止になりかける。

 通常の企業なら、莫大な開発費がかかるこのプロジェクトをとっくに断念していたかもしれない。しかし、ホンダには、若い優秀な人材が自分の考えを直接、経営トップに近い人間に話せるような「フラットな組織」が保たれていた。そのおかげで、藤野はプロジェクトの存続が危うくなると、いちスタッフでしかなかった時代から、その時々のトップに革新的な構想を提案して、難局を打開してきた。当時の模様をホンダの4代目社長の川本信彦は、前出の『ホンダジェット 開発リーダーが語る30年の全軌跡』のなかでこう語っている。

「組織というのはどうしても硬くなってしまいがちだが、ホンダでは役員室が大部屋になっていて皆がいる。そこへふらっと担当者(藤野)が入って来て『川本さん、時間空いてますか? ちょっと聞いていただきたいことがあるのですが』という感じですよ」

 また藤野自身がプロジェクト全体を統括する立場になった折には、

「私が最も気をつけていたのが、フラットな組織で、できる限り直接、各スタッフとコミュニケーションをとって具体的な仕事の指示を与え決定を下すことでした。そうすると、私もメンバーの一人一人も非常に忙しくなる部分はありますが、全体としては効率良く開発を進めることができます。大きな会社になればなるほど階層化されて判断が遅くなる。あるいは新しくポジションをつくったために、さらに余計な仕事が発生することがありますからね」

 と、常に現場とともに考える努力をしてきたと語る。

 ホンダは四輪分野での参入も、国内自動車メーカー11社のなかで最後発だったが、自由な発想と独自の技術を強みにモノづくりへの飽くなき挑戦を続け、現在のポジションを獲得している。そして今、またしても常識にとらわれない自由な発想で、航空機産業にも乗り込んだ。これからこの分野で、世界のトップ企業になることも夢ではないかもしれない。

 日本の“モノづくり”がかつてほど元気がなくなっている今だからこそ、ホンダジェット開発から学ぶことは大きい。

デイリー新潮編集部

2016年2月18日掲載

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