恩師に抱いた初めての疑問──『湯川博士、原爆投下を知っていたのですか』

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広島の爆心地で被爆して死線をさまよった青年が、いかにして“原子力村のドン”と呼ばれるようになったのか

“原子力村のドン”と呼ばれた森は、晩年になって、ひとつの謎に苛まれていた。父母係累を一瞬にして喪い、自身も爆心地で被爆した昭和二十年夏の広島。あの日、あの場所に“特殊爆弾”が落とされることを、恩師の湯川秀樹は知っていたと聞かされたのだ。自分の原子力人生を決定づけた恩師の真意は、いったい何だったのか。

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(※本書評は単行本『湯川博士、原爆投下を知っていたのですか』刊行当時のものになります)

「森一久」という名前を聞いてピンとくる人は果たしてどれほどいるだろうか。氏は、政財官界にわたる広範な人脈を持ち“原子力村のドン”と呼ばれた人物。

 本書は、黒衣に徹しつつも黎明期から一貫して日本の原子力業界を見据えてきた森氏の生涯を描くドキュメンタリーである。広島出身の氏は一九四四年に京大理学部に入学し、湯川秀樹博士に師事することになる。

 入学の翌年、偶々帰郷していた折に被爆、両親など五人の親族を失う。母を探し求めて(結局、見つけることはできなかった)爆心地をさまよい歩いた結果、原爆症で瀕死の状態に陥るが奇跡的に恢復。

 卒業後は湯川博士の奨めで中央公論社に入社、科学月刊誌「自然」の編集に携わった後、一九五六年に社団法人「日本原子力産業会議」を創設する。

 ところが、七〇歳を過ぎた頃、気になる事実を知る。森氏と同郷で京大同期の人物が、一九四五年五月に担当教授から呼び出され、「広島に新型爆弾が落とされるから家族を疎開させろ」と告げられたが、その場に湯川博士が同席していたというのだ。

 森氏は、なぜ湯川博士は自分にそのことを教えてくれなかったのかという疑問に苛まれる。被爆者である自分こそ原子力を監視する資格があると博士は考えたのか。

 氏は湯川博士を知る人々を訪ね歩くが、結局、疑問が解けることはなかった。森氏の生涯を辿ることで本書は、日本の原子力村が、官僚化、劣化、無責任化してゆく過程を描き出す。

 森氏は、自分が関与する原子力界が、独善的で閉鎖的な組織へと変質していくことを危惧し、日本型システムの歪みが次々と表面化していく事態を「どこまでつづく、ぬかるみぞ」と記す。

 氏は、原発反対の論者とも交友を持った。氏にとっては、原子力に対する「畏れ」こそが、この世界に携わる者が立脚すべき原点だった。氏は福島原発の惨事を見ないまま二〇一〇年、八四歳で死去。本書の最後に置かれた夫人の言葉が胸を衝く。

[評者]山村杳樹(ライター)

『波』2015年8月号掲載

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