発展の歴史は「丸の内口vs.八重洲口」 東京駅「100年」人と歴史とトリビア(3)

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 開業100年を迎えた東京駅。関東大震災にも耐えた駅舎を米軍の爆撃が襲った。その後の復旧、発展にまつわる秘密のトリビアを交通ライターの杉崎行恭氏が解説。

■八重洲の繁栄と地位逆転

 昭和20年5月25日から26日にかけての米軍機による夜間爆撃で、東京駅はほぼ完全に焼失する。その現場を目撃した作家の内田百閒は「煉瓦の外郭はその儘あるけれど、窓からはみな煙を吐き、中には未だ赤い焔の見えるものもある」と『東京焼盡(しょうじん)』に書いている。このとき駅舎は全焼したものの、迅速な避難誘導が奏功し、駅や東京ステーションホテルの客にはひとりの被害者も出さなかった。

 とはいえ屋根は完全に焼け落ち、かつての威容は見る影もなくなった東京駅。だが、駅員たちは周囲のビルから机や椅子を借りて業務を再開。早くも空襲翌日の27日には5本の列車を運行させている。以後、雨が降ると「焼けたコンクリートに水が染み込み、晴れた日でもぽたぽたと雨が落ちてくる」という惨めな状態のまま終戦の日を迎える。

 連合軍進駐後の9月15日から、東京駅にはRTO(進駐軍鉄道輸送事務所)が置かれ、日本国内の鉄道に関する指令がここから発令されるようになった。RTOはサンフランシスコ平和条約締結(昭和26年)後の昭和27年3月31日まで日本の鉄道界に君臨。現在、JR京葉線の八重洲地下コンコースには、丸の内南口にあったRTOの進駐軍専用旅客待合室に飾られていた建築家・中村順平の手になる石こうレリーフが移設展示されている。

 焼け落ちた駅舎は昭和20年10月には復旧工事が着手され、3階建から2階建に変更されて、昭和22年3月15日に竣工した。

 これが平成19年(2007年)までの60年間、私達が見慣れた角屋根の東京駅の姿だ。

 この間、赤レンガの丸の内駅舎には目立った変化はなく、一方で東京駅は八重洲口の整備に傾注していくことになる。八重洲口は、関東大震災の復興期に乗降客が増えたこともあって昭和4年にささやかに開設された。さらに戦後復興期には押しよせる乗客を捌ききれず、長年続いてきた丸の内口の『南口乗車・北口降車』の乗降分離が廃止される。

 昭和22年にはホームを跨ぐ陸橋もでき、翌年、モダンな八重洲口駅舎が完成(24年、失火により焼失)。それからも、繁華街である日本橋や京橋に面した八重洲口の重要性は衰えず、昭和29年には大丸百貨店の入る6階建の駅ビルが完成し、10年後の昭和39年には八重洲よりに東海道新幹線のホームが置かれ、ついに東西の力関係は逆転。昭和43年には八重洲口駅舎の鉄道会館ビルも高々とした12階建に改築された(平成19年に営業終了し21年解体)。

 その頃、丸の内駅舎の処遇について、新幹線を生んだ豪腕の元国鉄総裁・十河信二(そごうしんじ)が「八重洲鉄道会館の倍の24階のビルにしろ」と言及していたという。昭和52年には当時の美濃部東京都知事が外国人記者クラブで「惜しい建物なので明治村にでも(移設を)」と言い、これに東京・小金井市の市長が「保存するから引き取ろう」と発言したことなども報じられた。

 丸の内駅舎は、都心再開発の大波の中で、早晩消えていくものと思われた。

 今だから話せるが、かつて万世橋の交通博物館内の写真屋に勤務していた筆者は、国鉄との連絡のためなどに丸の内駅舎の業務用通路を利用しているうち、構内から改札を通らずに外部に出られるルートを何本も発見した。扉ひとつ開くと迷路のような東京駅は謎めいた雰囲気も残す、じつに面白いところだった。

■何度も変わった将来計画

 昭和56年には、国鉄が丸の内駅舎を35階建の超高層ビルにすると発表。超一等地の東京駅再開発は国鉄の赤字解消の切り札とも目された。平成2年には衆参両院で『国会等の移転に関する決議』が議決されて首都機能移転が話題となり、那須や美濃地方などが新首都の候補地として報道されたのを覚えている人も多いだろう。

 東京駅の未来が心配されたが、平成11年、首都機能移転反対を公約に掲げた石原慎太郎氏が東京都知事となり、後にJR東日本から東京駅の復元計画が発表された。

 いま、東京駅から皇居に延びる幅73メートルの行幸通りに立って丸の内口を眺めると、駅舎が通せんぼをするように横たわり、あたかもミカドを1200年の古都、京都に還らせまいとするかのようだ。左右に高層ビルを従え、重厚できらびやかに復元されたその景観は、クラシックというより未来的な印象である。

 ふりかえって東京駅が開業した大正3年は、明治政府が天皇を江戸城に迎えて46年しか経ていなかった。大正天皇や昭和天皇も即位式は京都御所でなさり、明治維新からこのかた『東京遷都』が正式に発令されていないことも周知の通りだ。だから首都をこの地に留めておくために、何が何でも重量感ある巨大駅舎の正面を宮城に向けなくてはならなかった、というのはいささかSFめいた空想だが、今も昔も東京駅は天皇陛下の行幸の際に使われ、鉄道駅としては極めて特殊な「天皇の駅」としての役割も果たしてきた。

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杉崎行恭(すぎさき・ゆきやす)
1954年生まれ。カメラマン兼ライターとして時刻表や旅行雑誌を中心に執筆。鉄道趣味の世界では駅と駅舎の専門家として知られる。
著書に『日本の駅舎』『駅旅のススメ』『日本の鉄道 車窓絶景100選』など。

「特別読物 東京駅『100年』人と歴史とトリビア」より

週刊新潮 2014年12月25日総選挙増大号掲載

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