渡瀬恒彦、大原麗子からベッドインを拒否されていた 三枚目な私生活

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■最強二枚目俳優も私生活は三枚目だった! 大原麗子にベッドインを拒否された渡瀬恒彦(上)

 多臓器不全で俳優・渡瀬恒彦が鬼籍に入ったのは、去る3月14日のことである。享年72。空手二段の腕前以上に芯ある強さを見せてきた二枚目は、私生活では三枚目を演じることもあった。4年半を共にした前妻・大原麗子からベッドインを拒否されていたと言うのだ。

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渡瀬恒彦(東映マネージメントHPより)

「初期の渡瀬さんの魅力はなんといってもその狂暴性とイノセンスでした」

 と解説するのは、映画史研究家で作家の伊藤彰彦氏である。近年ではもっぱらテレビドラマ・シリーズの「十津川警部」や「おみやさん」「警視庁捜査一課9係」など、お茶の間で親しまれていたキャラクターとは裏腹な顔かたちを描き出してくれる。

「『仁義なき戦い 代理戦争』では、元工員の下っ端やくざを演じています。例えば菅原文太演じる親分を待っているシーンで、観葉植物にライターの火を当てている。これは渡瀬さんのアドリブ。結局、彼は映画の終盤で無残な最期を遂げますが、組織に恵まれずに滅んでしまうという意味で集団就職世代の痛ましさを体現しており、観客の共感を得られたのです」

 この映画が公開された1973年9月、女優の大原麗子と結婚。運命のいたずらに翻弄されるような4年半の私生活が仕事へどう影響したのか。それは後述するとして、73年のもう1本の映画について、脚本家の高田宏治氏はこう触れる。

「『実録・私設銀座警察』ではヒロポン中毒の殺人鬼を演じていますが、あんなはちゃめちゃな芝居、彼以外だれにもできないですよ。そう言えば、喫茶店で仲間たちとマリファナを吸っていたこともありましたけど……。ともあれ主役というよりは脇で光る役者でした」

 とはいえ、渡瀬本人も、その少し前までは、自分が銀幕のなかに立つこと、あるいはありきたりの悪党ならぬ、ポン中の殺人マシーンを演じようとは思ってもいなかった。そういう生活が彼の長いあいだの夢だったわけでは断じてない。

 ちなみに渡瀬が斃れることになった胆のうがんについて、東京オンコロジークリニックの大場大代表によると、

「広義では胆道がんのひとつで、川島なお美さんや任天堂の岩田聡社長が患った病と同種のもの。報道にあったステージ4とは、がん細胞が胆のうの周囲にある臓器や重要な血管に食らいついたか、他の臓器に血液やリンパを介して飛び火した状態で、いずれにせよ手術によって治癒を目指すことが困難な病期を指します」

■学生時代に追っかけファンも

 ――44年7月、島根県で生まれた渡瀬は幼少の頃に淡路島に移り、三田学園中学校に進学する。

「恒さんは夏目漱石なんかを常に読んでいましたね」

 と目を細めるのは、三田学園中・高で彼と同級生だった兵庫県議の野間洋志氏。

「『乾坤一擲』とかはっとする言い回しや熟語を使うんです。だから国語の試験では同級生207人のなかで常にトップ5。3学年上にお兄さんの渡哲也さんがいて、2人とも図抜けて男前やから、運動会やらイベントがあると、地元だけやなく離れたところから追っかけファンみたいな女子グループが来ていましたよ」

 1浪の末、早慶中央のいずれも法学部に合格。尾崎士郎の『人生劇場』に憧れていたという渡瀬はそれゆえに早大に進学し、空手部に籍を置いた。東京で、青学に通う兄との共同生活が始まった。

「自身が俳優になりたいと言っていたことは一切なかったです。“兄貴は兄貴、俺は俺”“俺は作詞家になるんだ”と言っては、いっぱい詩を書いていました」

 それが、電通PRセンターに就職してしばらく経った70年ごろのこと。

「“いま、わしは北海道におるんや。映画のロケをやっとって、賀川ゆき絵さんと一緒にいるんや”と電話がありまして。びっくらこいた私が“どないなっとんねん”と聞くと、“わしも映画に入ったんや”と」

■“私にまで言い寄る”

 渡瀬を69年にスカウトしたのは、のちに東映社長となる岡田茂である。

「それまで東映は着流しのやくざが悪を退治するという任侠映画によって全盛を誇っていましたが、渡瀬さんが入社してから、その路線は人気に陰りをみせていきます。高度経済成長が過去のものとなり先行きが不明となった時代に、単純な悪をやっつければハッピーエンドになるという展開が観客に受け入れられにくくなったということもあるでしょう」(前出・伊藤氏)

 そうした袋小路を打破すべく、渡瀬に白羽の矢が立った。東映は、現代的なアクションスターに仕立てあげようとしたのだ。

 そんななか、大原麗子との出会いがあった。

「恒さんが悪ぶっていた頃、ある俳優仲間が“大原麗子クラスのスター女優に言うことを聞かせるぐらいじゃないとダメだ”と吹き込んだことがあった。でも、まさか本当に結婚するとはね」

 とは、数々の出演作でメガホンをとってきた中島貞夫監督の証言。今でいう“格差婚”だとも取り沙汰されたが、大原麗子の実弟である大原政光氏は、

「お互いに一目惚れで、特に姉のほうが渡瀬さんを好きになったみたいです」

 と、後を受けるように続ける。

「結婚した当時、僕は姉の運転手をやっていました。僕がいるのにまるでいないかのように、“だっこ”とか言って、姉が渡瀬さんの膝の上に乗ったりして完全に2人の世界。でも、それも長続きはしませんでした」

 渡瀬の実父が死去し、独り身となった実母を渡瀬夫妻が引き取ったことが転機となったのだ。

「渡瀬さんのお母さんは“恒彦と私の2人で食事を摂るので、あなたは独りで食べてください”と言うような、とても昔ながらの方。姉は歩み寄ろうとしたんですがね……」(同)

 よくある嫁姑問題だけなら大原の心痛もそれほどでもなかったはずが、渡瀬の売れっ子ぶりが輪をかけた。

「京都での仕事が増えて自宅に帰れない日が続きました。あるときは夜の11時に姉から僕に電話があり、“これからすぐ京都に行くからクルマを出して”と。渡瀬さんの許に到着すると、姉は“許して”と泣いていました。直前に電話で口喧嘩をしていたことを詫びていたんです」(同)

 離婚の1年前になると状況は更にエスカレート。

「姉は渡瀬さんが浮気をしているんじゃないかと疑い始めた。そんな事実はなかったようですが、それでも、対抗策として長いことセックスを拒否したんです」(同)

 渡瀬は攻めあぐねた結果、

「これはあとで家政婦から聞いた話ですが、“私にまで言い寄ることもあったの。何もなかったけれど、随分我慢していたみたい”と」(同)

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(下)へつづく

特集「最強二枚目俳優も私生活は三枚目だった! 『大原麗子』にベッドインを拒否された『渡瀬恒彦』」より

週刊新潮 2017年3月30日号掲載

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