私には相撲しかない――37歳で亡くなった時天空 がん発覚から病室での断髪式までの心境を明かしていた

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31日に亡くなった、大相撲の元小結・時天空関

 大相撲の元小結・時天空関(現・間垣親方)が1月31日、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去した。37歳だった。彼が最後となる手記を「新潮45」2月号に寄せていた(取材・構成はライターの武田葉月氏)。「36歳、ガンで引退して」という手記では、がんの発覚から治療、病室での断髪式から引退までの心境が書かれている。

 時天空関が右脇腹の異変に気づいたのは、平成27年7月名古屋場所でのこと。愛知県内の病院で検査したところ「あばら骨にヒビが認められる」と診断されたという。しかし、9月から始まった秋場所でも脇腹の痛みがひどくなるばかり。場所後に都内の病院で精密検査を受けたところ、その診断結果は予想だにしない「悪性リンパ腫」というものだった。
 時天空関は、現在二十数名が活躍するモンゴル人力士とは異なる経緯で大相撲に入門している。平成12年に国立モンゴル農業大学から姉妹校の東京農業大学にスポーツ交流留学生として編入。モンゴルでは柔道選手として活躍していた彼は、同大学で相撲部に入部。すぐに頭角を現した。モンゴルで通っていた柔道道場には朝青龍(元横綱)や朝赤龍(元関脇、現・幕下)も在籍していたことがあり、ともに稽古した仲だったという。彼らの活躍を見ていくうちに、時天空関も相撲部屋に入門したいという気持ちが強くなっていった。

 時津風部屋に入門し、初土俵は平成14年。平成19年には小結に昇進している。平成27年当時は味わいのあるベテラン力士として評価されていたが、番付は幕内下位。しかし、同年名古屋場所で引退したモンゴル人力士のパイオニア・旭天鵬関(現・大島親方)が40歳11カ月まで相撲を取っていた姿を見て、自分も40歳までは相撲を取れるかもしれないと新たな目標を見つけたばかりであった。その矢先での「悪性リンパ腫」発覚である。

 時天空関はその時の心中をこう書いている。
〈ウソだろう? なにかの間違いに決まっている!
 しばらくは、自分の病気を受け入れることができなかったです〉

 医師からは「治療は半年ぐらいはかかるでしょう」と言われ、土俵への復帰も目指していた。

〈27年10月に、悪性リンパ腫の診断を受け、とにかく半年間の治療を乗り越えよう。その先を見据えたいと思っていました。けれども何クールかに亘る治療のためには、抗がん剤の副作用が頭髪に影響を与えるため、髷を切ることが必要だったのです〉

 大銀杏(髷)を切ることは、一般的には力士としての引退を意味する。病気の治療のためとはいえ、時天空関の心境はいかばかりだったのか。

〈「断髪式」は病室でおこなっていただきました。入門当時の師匠(元大関・豊山)、今の師匠(元前頭・時津海)、東京農大の安井監督、そして家族が集まってくれて、本当にありがたかったですね。強がっているわけじゃなくて、髷は力士の象徴ではあるけれど、髪の毛はいずれ生えてくるものです。病気を乗り越えなければ、「土俵復帰」は見えてきません。

 入院中は精神的に落ち込むこともありました。幸いにも、28年春頃からは、体力的にもかなり落ち着いてきたので、トレーニングジムに通って、筋力アップに努めました。トレーニングをすること、それと車に乗って街の風景を眺めたり、部屋の力士たちとたわいない会話を交わしたりしているうちに、次第に気持ちが前向きになっていくのがわかりました。
 私には相撲しかないんだ――。
 その思いが強くなっていったのです。〉

 当初、「右肋骨骨折」という診断書を出して休場していたため、この「断髪式」は公にされることはなかった――。
 28年初場所前に師匠を通して病名を発表。同じ病で闘っている多くの方から激励をもらったともあり、1日も早い土俵復帰を目指していた。しかし、若い力士たちが次々に台頭する姿を見ていくうちに、考え方も変わってきたという。

〈土俵に復帰すること、現役にこだわることがすべてじゃないのではないか? 私が一社会人として仕事に励んで、精一杯生きていく姿を見せることも、同じ病と闘っている人へのメッセージになるのかもしれない……。そうした心境の変化もあって、2016年8月下旬、師匠に引退の意志を伝えたんです。私ひとりで下した結論です。あまりにも突然のことだったので、師匠のほうが驚いていたぐらいでしたけど(笑)〉

 引退後は年寄・間垣親方を襲名して後進の指導に当たる一方で、国技館の警備の仕事に就いていた。昨年秋場所では、花道の奥で警備に当たる時天空関の姿を久し振りに見た多くのファンからメッセージが届いた。

 新しい夢を持ちながら闘病を続けていたが、一昨年11月の九州場所から休場し、治療に専念。しかしながら病には勝てなかった。引退から5カ月、あまりにも早すぎた死だった。

デイリー新潮編集部

新潮45 2017年1月31日掲載

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