赤瀬川原平 芸術を法廷で争った“前科者アーティスト”の功績をふり返る

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 去る1月26日、直木賞作家の赤瀬川隼が亡くなった。この日は昨年10月26日に他界した弟・赤瀬川原平の月命日でもある。

 兄弟そろって文才に恵まれ、原平のほうは「父が消えた」で芥川賞受賞。以後、ユーモアあふれる小説やエッセイを数多く手がけ、なかでも『老人力』はベストセラーになった。

 だが彼のキャリアのスタートは前衛芸術である。ネオ・ダダ、ハイレッド・センター、トマソン、路上観察学会、ライカ同盟、日本美術応援団……数々のグループ活動をとおして生涯、希有な視野で芸術活動をつづけた。

■前科者アーティストになる

 そんな赤瀬川原平が被告人席に引っ張り出されたのは活動初期、1966年のこと。制作した千円札の模型作品が通貨及証券模造取締法に抵触。折悪しく偽札事件「チ・37号事件」が世を騒がせていたこともあり、大きな問題となって通称「千円札裁判」に発展したのだ。

 芸術とは何か、が問われた美術史上に残る裁判で、美術家はじめ小説家、音楽家、評論家など錚々たる顔ぶれが証言台に立っている。赤瀬川の弁護を担った杉本昌純弁護士は当時をこう振り返る。

「豪華絢爛と言うほかなく、最高の知的世界が法廷を支配したように思えました。澁澤(龍彦)さんは知性の塊のような人でしたし、粟津(潔)さんは当時のトップグラフィックデザイナー。シュルレアリスムの大家・福沢一郎さんは、原平さんと二人でアトリエを訪ねると、無名の新人の話を熱心に聞いて快諾してくれた。印象に残ってるのは、東京画廊の山本孝さんで、『この千円札の価値は、5万円に匹敵する』と断言したことです」(「芸術新潮」2月号より)

 上告を棄却され、執行猶予つきの有罪が確定するも、赤瀬川はのちに「私が芸術のことをはじめて考えたのは警視庁の地下室だった」と述懐。結果的に裁判は、赤瀬川に活動の深度を増幅させる糧となった。

警察に押収された模型千円札による梱包作品。千葉市美術館での「赤瀬川原平の芸術原論展――1960年代から現在まで」展示風景(会期終了)より。現在は大分市美術館に巡回中(2月22日まで)。撮影=筒口直弘[新潮社]

■出会いから最期まで、赤瀬川夫人が初告白

 晩年は病に悩まされた。2011年、胃がんの手術をうける。翌年、今度は脳溢血に見舞われた。赤瀬川夫人が語る。

「脳溢血から2ヵ月が過ぎた6月、私が運転する車で病院に行ったとき、駐車場で突然ポツリと『赤瀬川原平やめよっかな』とつぶやいたことがあった。『えっ? 違うことやりたいの?』って聞き返したら、冗談めかして『うん……』ってごまかしてそれ以上のことは言わなかったのね。自分の本音はなかなか話さなかったけど、『やめよっかな』と漏らしたのだけは、偽りのない本当の気持ちだったかもしれない」(同前より)

 2013年には肺炎、急性副腎不全、低酸素脳症と、たてつづけに病気に襲われ、晩秋には植物状態に至ったことも夫人が明かしている。

 赤瀬川原平やめよっかな。その真意はわからずじまいだが、精力的な活動に終止符を打つ覚悟をしたとも考えられる発言だ。

 赤瀬川のカメラに未整理のままの写真が残されていることがわかったのは没後。「芸術新潮」2月号では2011年から2013年に撮影されたその一部を掲載しているが、そこには「まだ赤瀬川原平をつづけよう」とする芸術家の意志が垣間見える。

◆ともに活動した多くの仲間たちの証言を交えて、多才な芸術家の全活動をふり返る
「芸術新潮」2月号
追悼大特集 超芸術家・赤瀬川原平の全宇宙
1月24日発売

デイリー新潮編集部

芸術新潮 2015年2月号掲載

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