「癒し系サウンド」でヒット連発! クラシック音楽ファンも注目のレコード会社が仕掛ける「悪意のない音楽」とは?

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 何かとストレスの多い今日この頃、心身ともに疲れ果てた時は「癒し系サウンド」を聴いて心と体を立て直すという人も多いでしょう。

 そんな癒し系サウンドを求める人々の間で注目されているのが、音楽レーベル「ECM」。その独特の世界観で、ジャズやクラシックなどのジャンルを越えて、多くの音楽ファンの心を掴んでいるようです。
 
 一体どんな音楽レーベルなのか。岡田暁生さんと片山杜秀さんの対談本『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)から、一部を再編集してお届けします。

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岡田:古楽やミニマル・ミュージックのブームで忘れてはいけないのは、エストニアの作曲家、アルヴォ・ペルトの「発見」です。ペルトはもともと「現代音楽」の人でしたけれども、作風はどこか中世音楽みたいになっていった。このペルトのCDを積極的に売り出したのが、ドイツのレーベル「ECM」だった。このことも、近年のクラシック音楽の聴かれ方を考えるにあたって、重要なことではないでしょうか。

片山:その通りだと思います。

岡田:ECMは1969年立ち上げです。まさにポスト・モダン前夜。従来のドイチェ・グラモフォンとかデッカといったメジャーではない、インディーズレーベルの先駆けみたいな会社で、キース・ジャレットやユーロピアン・ジャズが看板だった。リバーブを効かせた独特のサウンドが特徴だった。癒し系サウンドですね。あのリバーブは本当に印象的だ。何のCDでもリバーブだけで「あ、これECMね?」とわかる。

片山:キース・ジャレットが弾くバッハの鍵盤曲などもリリースしていました。

岡田:やがてアンドラーシュ・シフやギドン・クレーメルなどのクラシックも出すようになったけれど、すべてのCDが、ひとつの世界観で統一されているように見えるんですね。

 キース・ジャレットとの共演で有名だったノルウェーのジャズ・サックス奏者のヤン・ガルバレクを、中世合唱音楽で知られるヒリヤード・アンサンブルと共演させたアルバム『オフィチウム』は世界的ヒットでした。スピリチュアルな静けさが、中世音楽とジャズと癒し音楽を見事につないでいた。

片山:ECMレーベルは、まさに古楽やミニマル・ミュージックがブームになるポスト・モダンをリードし続けたレーベルです。つまり、大勢の集団を熱狂させるような音楽ではなく、あくまでも個室のなかで一人でステレオ・セットに向かう個人に供される音楽。しかも、聴き手を没入させて我を忘れさせるようなところとは一線を画している。そんな音楽トレンドを創出した点で極めてクリエイティヴな会社だったといえる。

 たとえばベートーヴェンでも、ECMは《第9》などよりも、アンドラーシュ・シフによるソナタ集をリリースするでしょう? そこには、世界市民のユートピアに陶酔しようみたいな安手の桃源郷志向はない。やはりメディテーションではないですか。

岡田:シフは「引きこもりメディテーション系」の巨匠ですね。癒し音楽好きなら何でもいいからECMを聴けばよい。たとえばベートーヴェンのような「熱い」音楽が苦手だ、バッハ以前のもっと落ち着いた癒しの音楽を聴きたいという方にお薦めのCDが、ECMのヒリヤード・アンサンブルによる『ペロタン作品集』です。

片山:このCDもロングセラーですね。12~13世紀のフランスの作曲家で、初期ポリフォニー(多声楽)音楽の大家であるペロタンは、ミニマル・ミュージックのライヒのモデルにもなっている。演奏しているヒリヤード・アンサンブルも、古楽のみならず、ペルトなどの新しいレパートリーも歌う二刀流の声楽カルテットでした。

悪意のない音楽

岡田:以前、友人でクラシック音楽の大ファンである科学者にペロタンをすすめたら、えらくはまって、その感想が面白かった。いわく「ペロタンの音楽には悪意がないですね」と。

片山:それはどういう意味で?

岡田:彼によれば、ベートーヴェンは世の悪意に打ち勝ってみせる、シューベルトは諦める、マーラーは嘆く。そしてモーツァルトには、ピアノ協奏曲でいえば第19番までは悪意を知らない純粋さがあったが、第20番以降、世に悪意ある人間がいることを知ってしまった人の音楽になってしまう気がする、と。

片山:なるほど。モーツァルトも市民相手に食っていくような音楽に目覚めると、悪意が入るということですか。そこからは悪意の系譜だと。

岡田:もしかしたら「バッハ以前の1千年の音楽」とは、「まだ悪意を知らなかった音楽の時代」だったのかもしれません。近代になるとともに、悪意と闘う音楽が隆盛になる。しかしポスト・モダンになって人は闘い疲れしてくる。「悪意以前」の古楽が再び浮上してくる……。

 このことはおそらく、「古楽は人間が聴くための音楽だったのか」という問いとセットになっています。宗教の問題になってくるといってもいい。つまりペロタンの時代の音楽とは、神に奉納するものであって、人間が聴いて楽しんだり感動したりするものではなかったんじゃないか。

※岡田暁生・片山杜秀『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)から一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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