最高視聴率は40%超! 怪物番組「ザ・ベストテン」が消えた意外な理由

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「誕生日」は1月19日

 人気歌番組「ザ・ベストテン」の記念すべき第1回の放送は今から46年前、1978年の1月19日だった。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】

 紅白歌合戦の後に聞こえてくる「知らない曲ばかり」という嘆きの声は大きくなるばかり。昭和の時代は、たとえ好みではなくても何となく耳にしたことがある歌が多かったのだが、聴き方も好みも多様化、細分化した現在では仕方のないことなのだろう。

 今とは異なり、「ヒット曲」が多くの人に共有されていた時代を象徴する番組の一つが「ザ・ベストテン」「歌のトップテン」などのランキング番組だ。

 こうした番組を家族で見ながら「こんな歌のどこがいいんだ」「お父さんにはわからないよ」と楽しく口論していた思い出がある方もいることだろう。

 これらの人気番組はなぜ消えていったのか。

 放送コラムニスト、高堀冬彦氏が取材して見えてきた真実とは――。

(「デイリー新潮」2022年7月5日記事をもとに再構成しました)

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 1970年代後半から80年代の音楽番組はランキング形式が主流だった。TBS「ザ・ベストテン」(1978~1989年)と日本テレビ「ザ・トップテン」(1981~1986年)、同「歌のトップテン」(1986~1990年)である。どうして消えたのか? 調べてみたところ、意外な事実が浮かび上がってきた。

 「ザ・ベストテン」などのランキング番組が消えた理由について、まず元民放音楽番組プロデューサーに聞いた。

「理由の1つはランキングづくりが難しくなってしまったから。1980年代後半、レコード(CD)の売り上げを人為的に操作する専門業者が現れた。誰かから依頼を受けると、レコードの売り上げを調べるポイントの小売店で特定のレコードを買い漁った。するとレコードの売り上げデータが不公正なものになってしまい、ランキングづくりの妨げになった」(元民放音楽番組プロデューサー)

 レコードの売り上げデータは番組のランキングづくりにとって極めて重要な指針だったのだ。

「ザ・ベストテン」も「歌のトップテン」もレコードの売り上げ、有線放送へのリクエスト、番組自体へのリクエストなどを基に独自のランキングを作成していた。

「ザ・ベストテン」の場合、レコードの売り上げがランキングを決める要素の約6割を占めていた(1986年から放送終了まで)。それなのにレコードの売り上げデータが操作されてしまったら、番組の屋台骨が揺らぎかねない。

 元レコード会社幹部も「レコードの売り上げを操作する専門業者は番組にとって極めて厄介な存在になっていた」と振り返る。あのころ、専門業者の出現は音楽業界で広く知れ渡っていた。

 ランキング形式の音楽番組の時代が終わった1990年当時、番組終了の理由として「音楽の趣味が多様化」「番組を支えていたアイドルブームの陰り」などが挙げられた。どちらも真実に違いない。

 だが、視聴者が納得するランキングづくりが年々難しくなったことも大きかったのである。なにしろランキングは番組の生命線。最大の売り物なのだ。

「今は新曲が毎週発売されるが、当時の発売日は毎月5日と21日が中心。だから専門業者は5日と21日になると、大勢のアルバイトを使い、指示されたレコードの大量買いをしていた」(同・元レコード会社幹部)

 なぜ、そこまでしたのか。言うまでもなく「ザ・ベストテン」と「歌のトップテン」に人気と影響力があったから。

「ランキング入りすると、売り上げが確実に大きく伸びた」(同・元レコード会社幹部)

出演しないアーチストの増加が衰退を招く

 特に「ザ・ベストテン」は番組のパワーが衰えていた1989年9月28日放送の最終回ですら世帯視聴率は12.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区、以下同)

 1981年9月17日に記録された最高世帯視聴率は41.9%にも達した。

 別の元レコード会社プロデューサーはディレクター時代に何人ものアイドルを担当した。やはりランキング上位を目指したが、売り上げ増だけが目的ではなかった。

「(担当していたアイドルたちに)悲しい思いをさせたくなかった」(同・元レコード会社プロデューサー)

 ランキングに入らなかったり、ライバルに敗れたりすると、アイドルたちは意気消沈したという。打ちひしがれた。担当ディレクターは見たくないはず。ランキング争いは当事者たちには戦いだった。

 そんな背景もあったから、1980年代後半にレコードの売り上げを操作する業者が現れたのだろう。

「ザ・ベストテン」「歌のトップテン」の継続が困難になった理由はまだある。出演しないアーチストがどんどん増えていったためである。

 中島みゆき(70)、山下達郎(69)、竹内まりや(67)らいわゆるニューミュージック系や矢沢永吉(72)、BOØWYらロッカーたちは言うに及ばず、1980年代半ばからは松田聖子(60)ら歌謡曲系のビッグネームも欠席するようになる。

「大物アーチストがランキング番組を敬遠した1番の理由はフルコーラスで歌えないから。本来は4、5分の曲が、番組用にアレンジされて、3分前後に縮められてしまう。歌のジャンルを問わず、大物になると、これは耐え難い。作品を不完全な形で世に出すのだから。さらに必ず『生』で出演しなくてはならないという縛りも大物たちには重荷になった」(前出・元レコード会社幹部)

 ランキング番組は基本的には10曲紹介される。トークの部分もある。だが、放送時間は正味50分以下。フルコーラスは土台無理なのだ。大物招聘が難しいスタイルの番組だったのである。

おニャン子クラブが出演しなかった背景

 別の理由で出演しないアーチストも現れた。例えば1986年7月から約半年間、アイドルグループ「おニャン子クラブ」が、グループもメンバーも「ザ・ベストテン」には登場しなかった。

 当時、おニャン子は人気絶頂。同月には大ヒット曲「お先に失礼」を出していたから、これは痛かった。

 背景にあったのはTBSとフジテレビのシコリ。バラエティー番組「夕やけニャンニャン」(1985~1987年)でおニャン子を生んだフジの意向によって出演は辞退された。

 フジは単にライバル局に協力したくなかった訳ではなかった。事実、「歌のトップテン」にはおニャン子が出演している。フジには「ザ・ベストテン」への不信感があった。その1つはやはりランキングへの疑問だったとされている。

 一方、「ザ・ベストテン」側はおニャン子欠席について視聴者に向かって「(フジの)陰謀で出演できません」などと説明した。余計に話はこじれた。

 そもそもランキング形式の音楽番組の消滅はあらかじめ約束されたものだった。あの時代でしかやれなかった。

ビーイング系の台頭

 まず番組の華であるアイドルの新曲発表のペースが変わってしまった。あの時代は約3カ月に1度、新曲が発売されていた。図らずも番組にとって好都合だった。大体1~2カ月強にわたってランキングに入り(もちろん、もっと長いものもあった)、視聴者が変化を求め始めたころ、新曲が出た。それがランキング入りした。

 今のアイドルの新曲発売は不定期。トップアイドルの乃木坂46ですら新曲発売までに半年以上も間が空くこともある。だから、ランキング番組側が出て欲しいアイドルが、思うように出演させられない。新曲がないのでは仕方がない。

 1980年代後半から1990年代半ばのビーイング(芸能プロダクション、レコード会社)系のアーチストの大躍進もランキング番組の壁になったに違いない。

 ビーイング系アーチストとは「愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない」などのB'z、「負けないで」などのZARD、「もっと強く抱きしめたなら」などのWANDS、「おさえきれない この気持ち」などのT-BOLAN、「瞳そらさないで」などのDEEN、「君が欲しくてたまらない」などのZYYGらである。

 1993年にはビーイング系アーチストだけでレコード売り上げが合計4百数十億円に達し、業界全体の実に約7%を占めた。半面、ビーイング系アーチストたちはほとんど音楽番組に登場しなかった。賞レースにも消極的だった。

 ランキング番組なら出たかというと、到底そう思えない。ランキングの上位にずらりとビーイング系アーチストが並び、揃って出演しないという異様な事態になっていた可能性が高い。

 また、1990年前後から音楽の世代ギャップが顕著になった。例えば若者は「愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない」を熱烈に支持し、売り上げは100万枚を軽く超えたが、中高年以上には曲名すら知らない人もいた。こんなことが当たり前のように起こるようになった。

 家族全員が知る曲のランキングを番組で確かめるのが「ザ・ベストテン」「歌のトップテン」の醍醐味。音楽の世代ギャップは番組づくりにおいて深刻な問題になったはずだ。

 世代を問わず、多くの人が知るヒット曲が存在したからこそランキング番組は成功した。「ルビーの指環」(寺尾聰、1981年)、「セカンド・ラブ」(中森明菜、1982年)「ジュリアに傷心」(チェッカーズ、1984年)、「愛が止まらない~Turn it into love~」(Wink、1988年)――。

「ザ・ベストテン」「歌のトップテン」の隆盛には当時の音楽事情が鮮明に反映されていた。あの時代は二度と戻ってこない。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。放送批評懇談会出版編集委員。1990年にスポーツニッポン新聞社に入社し、放送担当記者、専門委員。2015年に毎日新聞出版社に入社し、サンデー毎日編集次長。2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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