アントニオ猪木 “失神”の決定的瞬間 伝説のカメラマンが明かす衝撃の舞台裏

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「来る!」

 直感だった。そうとしか言いようがない。試合開始から20分が過ぎていた。リング外に落ちたアントニオ猪木の後頭部に、ハルク・ホーガンが必殺技のアックスボンバーを見舞い、猪木は鉄柱に頭部を打ちつけダウン。ホーガンは先にリングに上り、フラフラになった猪木がエプロンに上がると、ホーガンは反対側のロープに走る。

 もう一度、アックスボンバーが出る!

 その次の瞬間のことは正直、覚えていない。無我夢中だった。それしかない。普段、よく使う28ミリのワイドレンズで撮らなかったのはなぜか、今でもよく聞かれる。「カメラマンの本能でしょう」とフォローしてくれる人もいるが、偶然だったとしかいいようがない。結果として50ミリの標準で撮影したので、これだけの迫力ある瞬間を抑えることができた。

 ネガで確認すると、この後は何も写っていなかった。まさにその瞬間だったのだ。アックスボンバーを打ち込むホーガン、まともにそれを食らう猪木、両者の表情もバッチリ入った完璧な一枚だった。

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 2022年はアントニオ猪木が創設した新日本プロレス、ジャイアント馬場の全日本プロレスが共に50周年という、大きな節目の年である。去る3月1日には新日本が「旗揚げ50周年記念セレモニー」を日本武道館で開催し、往年のレスラーたちが参集した。

 勢ぞろいした懐かしい顔を見て、感慨にふけりながらシャッターを切る1人のカメラマンがいた。新日、全日の創設と時を同じくして、50年もの長きにわたりプロレスを撮影してきたその人物は、プロレスマスコミでは知る人ぞ知る存在である。

 ビッグマッチともなればリングサイド2名、2階席にも1人から2人。総勢3~4人のカメラマンを出してその“瞬間”を狙いに来るライバル社をよそに、たった一人で全てを収めてしまう伝説の男、人呼んで「リングサイドの“必撮”仕事人」……元内外タイムス写真部長の山内猛氏である。

 この4月、山内氏は『プロレスラー―至近距離で撮り続けた50年―』(新潮社)を出版した。これまで撮り続けた中から厳選した140点の秘蔵写真と共に、昭和・平成のプロレス黄金時代を振り返る内容になっている。本稿では、同書で紹介されている写真を巡る秘話や、未掲載の写真などを4回にわたって紹介する。

 第1回は、山内氏が忘れる事のできない一枚。「第1回IWGP優勝戦 アントニオ猪木 vs ハルク・ホーガン」である。

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 アントニオ猪木は1980年、当時のプロレス界で最大の組織だったNWA(全米レスリング同盟)からの脱退を表明し、翌81年、新たな世界タイトル「IWGP」の創設を表明した。「乱立する世界タイトルを統一し、真の実力世界一を決める」というコンセプトは明快だった。同年には初代タイガーマスクもデビューしており、新日本プロレス人気は最高潮に達していた。

 始まった「第1回IWGPシリーズ」は開幕戦から連日超満員。そして迎えた1983年6月2日の優勝決定戦は、大方の予想通り猪木とホーガンの対決となった。超満員となった1万3千人の誰もが、猪木の優勝を期待していただろう。しかし、試合は予想外の結末を迎えるのである。後にこの試合について、さまざまな論考がなされているが、ここではそれらに触れない。ただ間違いなく言えることは、エプロンに上がった猪木がアックスボンバーを食らい、失神状態で試合が終わるなどとは、私を含め、リングサイドで取材していたカメラマンは誰も予想していなかったということだ。

 猪木はリング外に落ち、セコンドが必死にリング内に戻すが、舌を出したまま気絶。何が起きたのか、その時点で理解できない観衆は騒然とする。猪木は救急車で運ばれ、翌日には普段はプロレスを報じない一般紙がこぞってこの試合を記事にした。

レスラーの「足」を追う

 この決定的瞬間を撮ることができたことはカメラマン冥利に尽きるが、夕刊紙の写真部記者だった私が現場で常に考えていたことは、その試合を象徴する一枚を撮れるかどうか、だった。記事の軽重によって写真の大きさも決まるが、短い記事でもインパクトのある写真なら、扱いも大きくなる。一枚でその試合を語り尽くせる瞬間をいかに押さえるか、新人時代から常に考えていたことだった。

 その為に最も大切なのは、レスラーの“極め技”を逃さないことだ。

 レスラーが決め技を出す瞬間を見極めるために、まず足の動きを観察した。

 例えば猪木が延髄斬りを決める時、ステップを踏みながらも、飛ぶ時の軸足となる左足をしっかり前に踏み出して固める、というように。他にも上半身や腕の左右や前後への使い方など、レスラーそれぞれの「クセ」や「特徴」を、撮影しながら頭の中に叩き込んだ。この作業を徹底して、レスラーの動きを把握できるようになると、試合の展開や流れがなんとなく予測できるようになる。この試合でもそうだった。

「ここでホーガンがアックスボンバーで決めに来る!」

 ただ、その後の展開まではさすがに予想できなかった――。決定的瞬間を捉えた一枚ということもあり、自著でも掲載させてもらったが、後日談がある。

 実は、私が勤務していた内外タイムスで、この写真は掲載されなかった。使われたのは、この次に撮った、猪木が舌を出して失神している写真である。載らなかった理由は覚えていないが、内外タイムスでも運動面ではなく、社会面で記事になった。プロレスが、猪木が、一般ニュースとして大きく取り上げられた試合だった。

 だが、この試合が伏線となって翌年、大変な騒動が起こることになるとは、誰もが考えもしなかっただろう。

 第2回は4月28日配信予定

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『プロレスラー―至近距離で撮り続けた50年―』で紹介されている写真を巡る秘話や、未掲載の写真などより構成。

山内 猛(ヤマウチ・タケシ)
1955年2月23日、神奈川県鎌倉市出身。大学卒業後、写真専門学校を経て1980年、内外タイムス社入社。編集局写真部記者(カメラマン)として、高校時代より撮り始めていたプロレスをメインに担当する。同社写真部長を経て、フリー。2022年4月現在は共同通信社配信の「格闘技最前線」で写真を担当する他、週刊誌等で取材を続けている。

デイリー新潮編集部

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