「京アニ事件」から2年 なぜ青葉真司の凶行は止められなかったのか 福祉、芸術、文化が果たす役割は

磯部涼 令和元年のテロリズム 国内 社会 2021年07月17日

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永山則夫が見た風景

 青葉真司が転々とした北関東の各所を巡りながら連想したのは、永山則夫のことだった。昭和24年に北海道網走市で生まれ、4歳で青森県北津軽郡に移住した永山もまた北日本の風景の中に閉じ込められていた。そしてその中で虐待と言っても過言ではない扱いを受けて育った彼は、やがて家出や不良行為を繰り返した末に、昭和40年、集団就職で上京。それは「N・N(引用者注:永山則夫)にとって、その存在を賭けた解放の投企であった」と、社会学者・見田宗介は「まなざしの地獄」(初出「展望」、昭和48年)で書く。しかし実際の東京は解放感を与えてくれるような場所ではなく、むしろ彼を地方出身者として、貧困者として見る“まなざし”によってがんじがらめにする。

 永山は更にそれを振り切るように香港へと密航を企てるも失敗、嘘で身を固めて各地を転々としながら、結局、横須賀の米軍基地で盗んだピストルで、昭和43年から44年にかけて連続射殺事件を起こす。そもそも見田が「N・Nのかくも憎悪した家郷とは、共同体としての家郷の原像ではなく、じつはそれ自体、近代資本制の原理によって風化され解体させられた家郷である」「いわば〈都会〉の遠隔作用によって破壊された共同体としての家郷」と分析するように、既に日本全体が東京の劣化コピーのようになっており、逃げ場などなかったのだ。そんな永山が見ていただろう風景を辿りながらカメラに収めていったのが足立正生の映画「去年の秋 四つの都市で同じ拳銃を使った四つの殺人事件があった 今年の春 十九歳の少年が逮捕された 彼は連続射殺魔とよばれた(略称・連続射殺魔)」(昭和44年制作、昭和50年公開)であり、スタッフとして関わった映画批評家の松田政男を中心に展開されたのがいわゆる「風景論」である。松田は「ひとえに、風景こそが、まずもって私たちに敵対してくる〈権力〉そのものとして意識された」「おそらく、永山則夫は、風景を切り裂くために、弾丸を発射したに違いない」(初出「朝日ジャーナル」、昭和44年)と書いた。

テロリズムとしての犯罪

 永山は収監後、文学や哲学、経済学の本を貪り読み、文章を書き始める。それは言わば上京によってなすことができなかった生き直しへの再挑戦だった。彼はそういった試みが許される環境に満ち足りたものを感じる。「こんな呑気に文章を綴っている状態を幸福というのではないだろうか? 安ぽいかも知れん、でも、今までを振返ってこのような境遇には出会ったことはないし、充分に考えられる時間はなかったから、私には幸福といえる。今は誰からも意識されていなく、誰へも激情を傾注させていない――それだから、私なりの幸福感を満喫している。ここには、何の葛藤も紛糾もありはしない。このような状態で逝けるのなら……人生ってなんて素晴らしく意義あるものなのだろうと思うな。人間という物は、考えられる時間が有るのなら、……幸福だというべきではないだろうか。そうなんだ! 私は今仕合せなんだ!」(*10)。永山は4人の人間を殺すことで収監、自分を縛ってきた“まなざし”から解放され、逆説的な自由を手に入れたのだ。

 また、独房での読書と執筆を通して改めて自身を見つめた彼は、事件について以下のように評している。「私には目的がなかった――と世間ではいっている。果してそうであるのか? 私から観ればあったのである。……あなた達(引用者注:家族)へのしかえしのために、私は青春を賭けた。それは世間全般への報復としてでもある。そしてそれが成功した」(*11)。つまり彼は自分が犯した罪を、個人的=社会的なメッセージを持つテロリズムだと認識するに至った。しかし見田はその被害者が永山と同じ一般の労働者だったことを指摘する。「N・Nの弾道がまさにその至近距離の対象に命中した瞬間、N・Nの弾道はじつは永久にその対象を外れてしまった。ここに体制のおそるべき陥穽はあった。そうしてのちに、行為のあとでそのことを知ったN・Nの痛恨はあった」。永山は書く。「私という人間が恐い、そう思えてならない。ある一つの物に燃え狂い、自制が効かないのです」(*12)。平成9年、永山則夫は絞首刑に処された。

*10 永山則夫『無知の涙』(合同出版、昭和46年)。ここでは見田宗介「まなざしの地獄」の概要を紹介する趣旨もあって、同論考より孫引き。
*11 同上
*12 同上

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