“天井サーブ”を生んだ「猫田勝敏」 ミュンヘンの奇跡を生んだ、タクシー運転手の一言(小林信也)

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 1972年のミュンヘン五輪、バレーボール男子日本代表に胸躍らせた世代なら、誰もが一度は、“天井サーブ”を真似した経験があるだろう。

 下手から天井に届くほど高々とボールを上げ、敵のリズムを崩す幻惑サーブ。“世界一のセッター”と呼ばれた猫田勝敏の代名詞だ。

(ミュンヘン五輪に向けて、独特の武器がほしい……)

 そう考えていた時、ふと思い出したのが、広島・崇徳高校時代の遊びだった。体育館の天井にある照明灯にボールをぶつけて遊んだ。

(あれをサーブに使えないか?)

 そんな閃きを、本当に採り入れてしまう大胆さと遊び心が、猫田にはあった。

 猫田は44年、広島県安佐郡古市町(現・広島市)に生まれた。原爆投下の1年前。自宅は幸運にも戦火を免れた。広島は戦前からバレーボールが盛んだ。自宅裏の小学校には、10面を超えるバレーコートが並んでいた。そんな恵まれた環境で猫田はバレーと親しんだ。総合的には素質があったともいえない。身長は成人になっても179センチ、大きくはない。ジャンプ力もどちらかといえばない方だった。

「お前はバネがないから、かかとをつけずに歩け」

 と中学の先生に言われれば、自宅と学校、片道4キロを爪先立ちで歩くような少年だった。ただひとつ、トスのセンスはずば抜けたものがあった。高卒後、地元の専売広島(現・JTサンダーズ広島)に入社してバレーを続けた猫田は、全日本が広島で試合をするとき、球拾いで連れていかれた。無名の18歳が練習に参加を許されると、すぐに監督、コーチ、それに選手たちも目を丸くした。

「トスを上げるとき、ボールに入るスピードが速い。動きがやわらかくて、身体の芯が崩れない」

 みんなの一致した驚きだった。猫田がトスを上げる姿は美しく、しなやかだ。

タクシー運転手の衝撃発言

 日本代表の末席に迎えられ、猫田は64年東京五輪に出場した。当時は2人セッターが主流、猫田は補助セッターと呼ばれる2番手役だった。

 東京五輪では“東洋の魔女”女子バレー日本代表が 金メダルを取り、日本中に大きな歓喜をもたらした。決勝のソ連戦のテレビ視聴率は66・8パーセント。いまもスポーツ中継史上最高の数字を記録している。

 同じ東京五輪で男子バレーも健闘した。10カ国総当たり戦、ハンガリー、チェコスロバキアには苦杯をなめたが、優勝したソ連に土をつけ、強豪ルーマニア、ブルガリアにも勝った。7勝2敗で堂々の銅メダル、立派な快挙だった。

 しかし、この銅メダルが後になって複雑で苦い記憶に彩られる。

 コーチだった松平康隆は、市川崑監督の記録映画が完成したとき勇んで見に行った。ところが、170分に及ぶ映画に自分たちは一度も登場しなかった。女子バレーは主役の扱いだった。

(銅メダルでは相手にされない。絶対に金メダルを獲る!)

 松平が固く心に誓った瞬間だった。

 同じ頃、チームメイトとタクシーに乗った猫田も似た経験をする。乗り込んだ大きな男たちを見て運転手が「何をやっているのか」と訊いた。「全日本の男子バレーボール選手です」と答えると、運転手は驚いた。

「男子もバレーボールをやっていたのですか」

 猫田らは言葉を失った。女子は国民的存在だが、銅メダルの自分たちはほとんど知られていなかった。

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